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トップ 校長対談「学びの土壌」校長対談「学びの土壌」第1回(前編)

東京大学大学院医学系研究科 水島研究室
医学博士 水島 昇 氏 (前編)

早いうちに自分の将来を「この範囲だ」と決めないほうがよい。
本当に面白いことは若い時にはやって来ない。


校長対談第1回(前編)_メイン写真B

校長対談「学びの土壌」が始まりました。
第1回は、オートファジー研究の世界的権威、水島教授を東大の研究室にお尋ねします。武蔵OBでもある水島教授と、学校での思い出や研究の面白さ、オートファジー研究についてのお話から、学びについてのお考えなどを伺ってみたいと思います。
プロフィール
左:梶取 弘昌(かじとり ひろまさ)
1952年東京生まれ。1977年東京芸術大学声楽科卒。1977年武蔵高等学校中学校芸術科非常勤講師。1988年、同校の専任教諭となる。2011年4月より校長。アレクサンダー・テクニック、ドイツリートの研究・演奏を現在でも続けている。

右:水島 昇(みずしま のぼる)
1985年武蔵高校卒業、1991年東京医科歯科大学医学部卒業、1996年同大学院博士課程修了(医学博士)。基礎生物学研究所(大隅良典研究室)を経て、2004年東京都臨床医学総合研究所室長、2006年東京医科歯科大学医学部教授、2012年東京大学医学部教授(生化学)。オートファジーによる細胞内分解の分子機構と生理的意義を研究。2011年度武田医学賞、2013年トムソン・ロイター引用栄誉賞、2016年上原賞受賞。
梶取:本日は、よろしくお願いします。早速ですが、水島先生の頃は、中学受験はどのように行われていましたか。

水島:私の子供の受験を観ていますと、今じゃなくて本当に良かったと思っています。

梶取:私の知り合いで中学受験を控えているお子さんがいる方と話をしますと、「最近の中学受験は大変になっているんですね」と驚かれます。世の中全体がおかしくなっているのでしょうか。本当は、勉強が好きで好きでたまらない、という子供に入学して欲しいのですが、現実は、なかなかそうはいきません。

水島:僕もそう思います。昔はそういった子供が受験したものですが、今はそうじゃない人も多く受験しています。だから大学に入った途端に、その先がよくわからないといった状態になってしまう。

梶取:「武蔵から東大だ」という、そこだけがゴールになってしまうのは、ちょっと違うと思うんです。武蔵の学びそのものが、受験だけを目指しているわけではない。昔も今も同じです。今日は、学ぶということはどういうことか、水島先生のお考えを伺いたいと思っています。
▶「知らないことがあっても恥ずかしいと思うな。でも考えつかなかった時が恥ずかしいんだよ」という武蔵の教えが、僕を育ててくれました。

校長対談第1回(前編)_梶取校長01

武蔵高等学校中学校 校長 梶取弘昌
梶取:水島さんは武蔵で6年間を過ごしましたが、武蔵の学びで印象に残ったことはありますか。

水島:いろいろあります。僕は、本当に武蔵を楽しんだ方だと思います。

梶取:地学部にも入っていましたね。

水島:ええ1年弱くらい。それから音楽部に入りました。部活動も楽しかったのですが、勉強は「すごく楽しいところ」と「さっぱりわからないところ」の両方がありました(笑)。すごく楽しいところが本当に面白かったので、武蔵の教育で育てていただいたことを嬉しく思っています。
梶取:印象に残っている授業はどんな授業ですか。

水島:まず、中1の畑先生の数学ですね。「知らないことがあっても恥ずかしく思うな。でも、考えつかなかった時が恥ずかしいんだ」ということを教えていただきました。これを最後まで、武蔵の教育で一貫して学んだと思うんです。物理の小林先生もそうです。「知らないことはどうでもいいけれど、考えないといけない」と。二人の先生から、強く叩きこまれた気がします。

※畑先生:武蔵高等学校中学校の数学教諭。1964年から67年まで教頭(現在の校長にあたる)を務めた。
※小林先生:武蔵高等学校中学校の物理教諭。1987年から91年まで校長を務めた。


梶取:「自分で考えろ!」ということを最初から言われましたか?
水島:「知らなかったことは調べれば分かるんだから、恥ずかしいことではない」と言われて、少し気持ちが楽になったのを覚えています。反面、知らなくてもよいと言われると逆の効果もあったのかもしれませんが、それでも考える方で勝負しようと思うようになりました。

梶取:今は、「分かりやすいことが良いこと」というのが教育の主流です。

水島:そうですね。

校長対談第1回(前編)_水島先生01

東京大学大学院医学系研究科 教授・医学博士 水島昇 氏
梶取:私も、中1の物理を二見先生から習いましたが、いきなり「質量とは何か。重さではないぞ」って。中1に分かるはずがない(笑)。でも、それを今でも覚えているんですね。わからなくても何か引っかかっていることって、大事なことかなと思います。

水島:本質的なところで、その時わからなくても後になってみれば一番わかりやすいということがありますよね。武蔵では、物理の授業で行列を教えるなど、これ数学じゃないの?と思うようなことをずっとやっていますね。

梶取:国語、数学、社会、理科など、教科は便宜的に分けているのであって、本来は全部つながっている。横断的なものだと思うんです。物理の授業で数学が出てきたりとか。例えば、加速度などでもグラフを書けば理解しやすい。微分・積分がわからない中学生でも理解できることがあります。そういうことが大事だと思います。

水島:その通りですね。学問では具体的なことの集まりから何かを抽出して一般化するということが大事で、そういうところを武蔵でやっていたのかなと思います。

梶取:根津研にずっと通っていたこともありましたね。

水島:畑先生や小林先生からは、コンセプト的なことを学んだと思うのですが、渡辺先生の根津研では、「研究者」とはどのようなものかを学んだ気がします。研究者の生活はどういうものか、一日中研究をし、実験をし、その間にご飯を食べる生活といいますか(笑)、将来の方向性を決めるのに大きく影響しました。

※根津研:根津化学研究所。武蔵高等学校創立者の初代根津嘉一郎の喜寿にあたって学園内に創立された研究所。化学の渡辺先生が、研究する場所として生徒に場所を提供していた。
梶取:根津研には、いつ頃通っていたんですか。

水島:高1くらいの時でしょうか、夏休みに学生5〜6人で通い詰めていました。

梶取:どんな研究をしていたのですか。

水島:それが思い出せなくて・・・(笑)。でも、根津研というのはかなり隔離されていて、本当に家みたいで、そこで研究も生活も全部できる感じなんですね。研究者というのはどういう職業なのかというのを感じ取ることができました。

—————根津研に代わるようなものは、今はないのですか。

梶取:研究室に行って先生の指導の下で研究する生徒はいますよ。理科棟の研究室で一人前に白衣を着て。でも、今の時代、大学受験があるので熱心に研究できるのは高1〜高2くらいまでしょうか。武蔵には表彰制度がありまして、山川賞/山本賞というのがありますが、高3になると余裕がなく応募しにくいようですね。

※研究室:武蔵には職員室がない。学科ごとに教員の研究室があり、生徒は研究室を訪ねて勉強の相談をしたり、教員のアドバイスのもとで専門的な研究を行ったりしている。
※山川賞/山本賞:生徒の自発的な研究を促すため、理科的分野の業績には山川賞を、文化的分野では山本賞を年度末に授与した。年によっては応募、授与がないこともある。賞の名前は、第2代校長山川健次郎先生、第3代校長山本良吉先生の名前に由来する。
▶父は医者ですが、私は医者にはなるまいと思っていました。

校長対談第1回(前編)_水島先生02

梶取:大学で、医学部に行こうと思ったのは何年生の時ですか。

水島:実は、受験の直前に変えたんです。

梶取:お父様は、確か、お医者様でした。

水島:ええ。でも、私は医者にはなるまいと決めていまして(笑)。理学部を受けようと思っていたのですが、最後の最後に医学部に変更しました。
梶取:高3の頃ですか。受験は大丈夫でしたか。

水島:実は、試験で国語の点が取れなくてですね、国語を除くと結構良かったんです。それで、医科歯科大は受験に国語がない。東大は国語がある。東大の理Ⅰ、理Ⅱと医科歯科大は同じくらいでしたので、医科歯科大へ進むことにしました。だから、医科歯科大は、国語ができない人ばかりが集まるんです(冗談です)。
▶医学部は、職業の選択肢が多い。霞が関にもいますし、小説家になる人もいます。もちろん、医者もありますし、研究者の道もあります。
梶取:医学部に進まれて。でも今とは違う分野ですよね。

水島:はい、そうです。普通の医者にはならないと決めていました。研究がしたいと。だから大学・大学院を通じて、違う分野の研究をやっていました。そうして、今の研究を始めたのは30歳になってから。随分と遅いんです。

校長対談第1回(前編)_梶取校長02

梶取:大隅先生の研究に出会われたのですね。

水島:はい。それまでは、もっと内科の病気に近い研究をやっていたのですが、30歳で基礎研究に移りました。特殊といえば特殊な経歴なんです。
梶取:医学部のシステムはよく知りませんが、国家試験では臨床もやるんですか。

水島:そうです。

梶取:そこから、研究職を選ぶか臨床医を選ぶかを決めるんですか。

水島:その先からは、どのタイミングでも選べます。

梶取:そこまでは、やることは皆同じですか。

水島:試験をクリアするという点では皆同じです。僕は、将来研究をやろうと思っていたので、逆に臨床の勉強をものすごく一生懸命にやりました。これが最後だなと思っていたので、むしろ医者のトレーニングをかなり真面目にやったんです。実際、卒業して30歳までは、医者も少しやりました。今はもう、全く出来ませんが。

梶取:以前、武蔵に来ていただいた時、生徒たちに「医学部に行っても、いろんな道がある」とおっしゃいました。職業としての選択肢が多いということでしょうか。

水島:広いと思いますよ。医学部出身者は、霞が関にもいますし、小説家になる人もいます。もちろん、医者もありますし、研究者の道もあります。かなり、広いのではないでしょうか。

梶取:おじい様は、確か化学者でいらっしゃった。
水島:物理化学です。その方面もいいかなと思ったのですが、大学に入る時、これからは生物の方が面白いと思いまして、医学部に決めました。

梶取:実際にオートファジーに進んだのは、大隅先生の論文を読んでから?

水島:そうです。その一点、その一時だけが、自分で自分の人生を決めたかなと思います。あとは、ほとんど自分で方向を決めたことがなく、なすがままに生きてきましたが、そこだけは、自分の意志で決めました。

校長対談第1回(前編)_水島先生TOP

梶取:決断するときは、怖くありませんでしたか。

水島:不思議な事に、それが最も良い選択だろうと何の疑いもなく決断できたんです。

梶取:30歳ですよね。生活もしないといけないし、その研究が実を結ぶかどうかもわからないですし。

水島:はい。

梶取:その研究を始めてすぐに論文を書かれて、評価され、世界からいろいろと問い合わせが入って・・・。

水島:ええ、うれしいことに。予想を遥かに上回るほどうまくいきました。なので、30歳で分野を変えることができたのが唯一よかった。
▶大隅先生の論文を読んで、オートファジーという分野は、これから大きく育つ、そう感じたんです。
梶取:「オートファジーこそ私の研究テーマだ!」と、どこで閃いたんですか。

水島:まず、なぜチャンスがあったのか。それがすごく大事だと思うのですが、当時、私は内科医でありながら、「生化学」という雑誌を読んでいました。それがまず異常なことで、内科の医者がこんな本を読むことはあまりないんです(笑)
水島:これが、私の人生を決めた本です(と言って書棚から「生化学」1997年1月号を見せてくださる)。内科の医者だったけど、この学会に入っている変わり者の医者だったんですね。武蔵を出てると、こうなるんです(笑)

一同:武蔵のせい・・・

水島:もう一つは、なぜこれを面白く思ったのか、なんですが。現実はその逆で、(大隅先生の論文部分を指し示しながら)、それ自体はあまり面白くなかった(大笑)。当時はまだ情報もほとんどなくて。

梶取:そうなんですか。

校長対談第1回(前編)_生化学_表紙

水島教授の人生を決定づけた一冊
水島:もう少し、真面目にお話しますね。この論文を読んで、これはやることが沢山ある分野だなと思ったんです。この新しい分野は、これから大きく育つ。そんなメッセージを強く感じたんです。こんなことを始めた、こんな点がわからない、ということが丁寧に書いてある論文で、でも確かに何かがスタートしているという気配は、読んでわかったんです。それで、私は医者を辞めることにしました。

梶取:当時は、この研究をしている人はいなかったんですか。

水島:ほとんどいませんでした。私自身、大隅先生を知りませんでした。

梶取:それで、大隅先生にお会いになることに。

水島:そうです。この本が1月号なんですが、6月には岡崎に引っ越して研究を始めていました。

梶取:すごいなあ。実際にお会いになって、大隅先生はどんな先生でしたか。

水島:第一印象は、絵に描いたような研究者。研究のことしか興味がありませんというような感じの方でした。そうでないことはその後すぐにわかりましたが。派手なところはまったくないし、人の役に立とうと思っている気配もない(笑)。好きなことを、ず~っとやっている。そんな方です。

梶取:その当時、ご家族は。

水島:すでに結婚していて、子供も生まればかりでした。岡崎に行くことを家族が同意してくれたことにはとても感謝しています。むしろ積極的に後押ししてくれました。結果的には、生活もしやすく、小さな子供を育てるにはとてもよい環境でした。
▶本当に面白いことは、若い時にはやってこないんです。若い頃に知っていることなんて、ほんの少ししかないのですから。
—————若い頃から、この本を通してたくさんの論文を読んできて、30歳にして初めて、大隅先生の論文にピン!ときたということですね。

梶取:不思議というか、面白いお話ですね。この論文に出会わなければ、この研究をすることにはならなかったわけですよね。

水島:そうなんです。確かに、周囲からは、医者を辞めて酵母の研究をするなんてやめた方がいいと言われたんですけれど。

梶取:素晴らしい決断だと思います。それにしても、いろんな巡り合わせがあって、今の水島さんがあるということなんですね。
水島:大事なことだと思っているのですが、私が30歳にして専門分野を変えることができた理由は、まず、すごく広く入口を持っていたこと。言い換えると、あまり早いうちに自分の将来をこの範囲だと決めないほうが良いと思っていまして、幅を広く持って人生を考えていました。もうひとつは、本当に面白いことは若い時にはやって来ない、と思っていたこと。若い頃に知っていることなんて、ほんの少ししかありません。本当にやるべきことが見つかった時に、すぐに動けるくらいの余裕を持っていたほうが良いのではないでしょうか。そのように感じています。

校長対談第1回(前編)_水島先生03

(後編に続く。後編は、4月上旬に掲載される予定です)
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