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トップ 校長対談「学びの土壌」校長対談「学びの土壌」第3回(前編)

MSC(海洋管理協議会) 鈴木 允 氏(前編)

「東京の生活は守られすぎている」と感じていた少年は、
世界に飛び出し、生きるエネルギーを掴んでいく。

校長対談第3回(後編)01

校長対談「学びの土壌」第3回の対談相手は、国際的NPOであるMSC(海洋管理協議会)勤務の武蔵卒業生、鈴木允さん。想像を超えた、タフな生き様に触れることができました。
左:梶取 弘昌(かじとり ひろまさ)
1952年東京生まれ。1977年東京芸術大学声楽科卒。1977年武蔵高等学校中学校芸術科非常勤講師。1988年、同校の専任教諭となる。2011年4月より校長。アレクサンダー・テクニック、ドイツリートの研究・演奏を現在でも続けている。
プロフィール
右:鈴木 允(すずき まこと)
1999年武蔵高校卒業。2005年京都大学総合人間学部卒業、大都魚類株式会社入社。2013年東京大学大学院農学生命科学研究科(国際水産開発学研究室)入学、2015年修了。2013年6月よりMSC(海洋管理協議会)において、持続可能な漁業の実現を目指し、全国の漁協や行政団体を回る毎日。
梶取:鈴木さんに会いたくて、今日を楽しみにしておりました。

鈴木:本当ですか。本日は、よろしくお願いします。
▶世界に行きたいと夢見る登山好きの少年でした。
梶取:鈴木さんの経歴を拝見したのですが、行動力とそのスケールの大きさに驚くばかりです。いくつか読み上げますと、まず武蔵時代。山岳部の合宿で数々の山に登頂するかたわら、個人で初冬の富士山や2月の北アルプスなどにも登りました。山岳部では部長もされました。日本海での重油流出事故の際にはボランティアに行き、特別授業ではアラブ文化入門を企画しました。国外研修では、北京に行かれています。

鈴木:懐かしいですね。

校長対談第3回(前編)02

梶取:京大の総合人間学部に進学されてからは、さらに凄い。
京大探検部に入部して、登山、ダイビング、カヌー、パラグライダー、洞窟探検など。また、中国新疆ウイグル自治区をバックパッキング、フィリピンボランティア、イギリス短期語学留学、ナイジェリアでのホームステイ、深夜バスによるヨーロッパ旅行など、行動範囲が世界に広がっています。一方、国内でも、中華街の獅子舞グループに入団したり、モンゴルのゲルを設計・自作したりと個性的な活動をされていました。
鈴木:列記するといろいろありますが経験としては浅いものもけっこうあります(笑)。とにかく広く活動して見聞を広げたいと思っていました。

梶取:極めつけは、三重県の漁村で1年半の漁師見習いです。卒業論文のためとありますが。

鈴木:はい、卒論研究という名目の居候ですね。

梶取:卒業後は、築地の水産会社に入社され、下働きから始めてセリ人になり、いくつかの魚種の売上では築地トップに。東大大学院を挟んで現在、MSC(海洋管理協議会)で仕事をされている。まだ、35歳ですよね。

鈴木:はい。

梶取:想像を超えています。どうすればこのようなスケールの子供が育つのだろうかと、お聞きしたいことが沢山あって興味津々です。早速ですが、どんな子供だったのですか。

鈴木:小学校に入るまでは、どちらかというと引っ込み思案な子供でした。幼稚園の園庭でみんなが鬼ごっこをしている横で、ひとり絵を描いているような。

梶取:目の前の鈴木さんからは、想像できませんね。小学校ではどうでしたか。

鈴木:あいかわらず、勉強はできるけどスポーツはダメという地味な少年だったと思います。とくに球技に関しては昔も今もまったくできない。

梶取:武蔵では山岳部だったし、カラダを動かすことは嫌いではなかったんでしょう。

鈴木:そうですね。運動神経はよくなかったのですが、持久力はありました。夏休みに、両親が八ヶ岳などの山々によく連れて行ってくれたのですが、山に登ると褒められるんです。それが嬉しくて、一日に幾つもの山を登ったりして、自信につながっていった気がします。
梶取:持久力に自信を持つ少年が、武蔵に入ってきた。

鈴木:それでも中学の頃は、あまり目立つ方ではなかったと思いますよ。

梶取:どのように、過ごしていましたか。

鈴木:夕方まで部活をやって、夜はレポートをやって、という日常だった気がします。レポートは、ほんと多かったです。実は物理のレポートが捨てられなくて残してあるのですが、先日、読み返してみたら、相当に頑張って書いていました。毎週毎週、レポートを書かされるでしょう。実験の方法、実験の結果、そこから一般的な法則まで導くのですが、ある実験の結果からそれを一般的な法則にまで導く、そのプロセスを発見した人はなぜこういうふうに考えたのだろう。ということを辿る作業はすごく面白かったです。

校長対談第3回(前編)04

鈴木さんが大切に残している、武蔵時代の物理レポート

校長対談第3回(前編)05

梶取:中学の理科は実験主体で、生徒は大変ですね。3年間で物理と化学で150本。相当な分量です。実験は楽しいけれど、レポートを書かないといけないというのは、相当にプレッシャーでもある。けれど、そこで鍛えられる部分が相当大きいと思っています。今でも中学の間に相当数のレポートを課していますが、鈴木さんの時代ほど多くはないかもしれません。

鈴木:当時は実験150本に対し、レポートも150本あったように思います。ただ、面白かったので、やらされているという感じはしなかったですね。

梶取:そういう原体験というのは、当然生きていますよね。

鈴木:はい。いまでも文章を書くのがそれほど苦ではないのは、レポートで鍛えられたところが大きいと思います。

梶取:部活は、山岳部でしたよね。

鈴木:そうです。中高一貫の部活なので、中学生は下っ端です。中3でもまだ上級生じゃない。山に登る時は、先頭に上級生がいて、その後を中1から順番に並んで、最後に部長と顧問が歩きます。だから中3で初めて先頭を任された時は、本当に嬉しかった。「後ろはみんな、遅れずに付いてきてるかなあ」と考えながら、全体の動きや休憩のペースを作っていきます。そういうことを学びながら高2で指揮する役になるのですが、これは中高一貫校の良い所だと思います。

梶取:山岳部に入ったのは、ご両親との登山経験があったからですか。

鈴木:それもあるとは思いますが、子供の頃から、海外の山に対する憧れがあったと思います。テレビで日本の登山隊が世界の高峰や未踏峰に挑戦する番組をやっているときはいつもドキドキしながら観ていました。小学校5年生の頃だったと思いますが、塾の先生から将来何になりたいかと聞かれた時も、「登山家になりたい」と言いました。武蔵の山岳部に入ったのは、そんな気持ちがあったからだと思います。
では、なぜ登山家にならなかったのかというと、その塾の先生が、「世の中の仕事は、みんな人の役に立っている。でも例外がある。登山家だけは人の役に立たない。」と(一同笑)。そうか~と思ってやめました。いまでは、登山家も人の役に立つと思っていますけれど。
▶人生を方向づけた、その原点の一つは、武蔵の家庭科の授業。
梶取:国外研修で、中国に行かれましたね。いかがでしたか。

鈴木:はい。今の仕事ともつながっていますが、中国に行ったときにはすでに「食」に強い関心を持っていました。それで、食べ物のことばかり考えていましたね。
話がさかのぼりますが、僕は小さい頃から食いしん坊で、食べ物への関心が強かったんです。グルメというのではなく、サバイバルとしての「食う」ということに関心がありました。小学校の夏休みには、親元を離れ瀬戸内海の無人島で1週間キャンプするという企画に参加したこともあります。木を擦り合わせて火をおこしたり、竹でご飯を炊いたりしました。漠然とですが、東京の生活は何もかもが揃っていて、守られていると感じていました。その守られている場所から外へ出た時に、どうやったら生きていけるんだろうか。それこそ、サバイバルできるのか、食べていけるのかどうかということに関心があったんです。

校長対談第3回(前編)06

梶取:確かに、東京の生活は守られていると感じますね。

鈴木:それから武蔵に入って、家庭科の授業の一環で有機農業の実習に参加したことが僕の人生を方向づける原点の一つになりました。実習では、畑を耕したり、稲刈りをしたり、肥料作りをしたりしました。はじめて鶏をさばいたのもこの時です。食べ物を作るということの大変さに触れながら、一方で、このまま人口が増え続けると世界はどうなるのだろうかと考えるようになりました。

梶取:家庭科が人生を方向づけたという卒業生には初めて出会いましたよ。
鈴木:第2外国語で選択した中国は、人口増加の真っ最中。10億人を超える人口をどう養っていくのか関心がありました。それで、国外研修の選考論文では、「中国の食糧生産や消費の実態をこの目で見てみたい」と書きました。その思いが通じて、2か月間北京に滞在する機会をいただきました。実際の滞在中には「食糧問題」などという大それたことはできませんでしたが、それでも北京の野菜市場や郊外のドライフルーツ市場を見に行ったりして、高校生なりにいろいろ見ようとしていたと思います。

梶取:なるほど。確かに、現在の鈴木さんにつながっていますね。

鈴木:卒業から17年経ちましたが、あいかわらず食べ物に関わっていられるのは本当に幸運だと思います。大学在学中に関心は農業から漁業へと変わり、以来10年ほどは、海と魚をめぐる問題を追いかけています。ぼく、世界中の海や漁村を訪ね歩きたいという夢があるんですよ。
▶「やるなら遠くから、全体を見るなら遠くから」と、
 未知の世界に飛び込んでいった大学時代。
梶取:鈴木さんのお話を伺っていると、何だかワクワクした気持ちになってきます。大学時代のエピソードを聞かせていただけますか。

鈴木:漁業に関係する話では、大学で西アフリカの漁業の調査をしたいと思い、ナイジェリアに3ヶ月ほど滞在しました。

梶取:そうでした。でも、どうしてまたナイジェリアだったのですか。

鈴木:いくつかあります。ひとつは、最初にハードルの高い場所に行っておけば、世界中の海を歩くという夢に近づくと考えたんです。それで、距離的にも心理的にも遠い西アフリカの漁業を調査対象に選びました。

梶取:なるほど。でも、凄いなあ。確かに、ゴールがはっきりしていると、いま何をすることが必要なのかが見えてきますね。だけど、それをやるハードルは、高いでしょう。

鈴木:何事も、「やるなら遠くから、全体を見るなら遠くから」という気持ちが強いようです。亡くなった百済弘胤先生がおっしゃっていた話の中に、「水平志向と垂直志向」という話がありました。人にはタイプがあって、一つの物事を掘り下げていく垂直志向の人と、幅広く物事をとらえようとする水平志向の人がいるという話でした。また、人生のその時々でも水平志向のときと垂直志向のときがあるという話もされていました。なにか一つの物事を掘り下げていくと、横につながる鉱脈に当たることがある。そこで水平に考えていくと、今度はまた別の問題に当たって、垂直に掘り下げていくことになる。人生とは、また、学問的探究とはそのようなものだ、という話でした。ナイジェリアの漁業を最初に選んだのは、ナイジェリアの漁業を垂直に掘り下げることによって、さまざまな横の鉱脈に当たるのではないかという直感があったからです。

梶取:ここでも武蔵での学びが生かされていますね。
鈴木:ナイジェリアという国に興味を持った最初のきっかけも、武蔵にあるんですよ。地理の受験勉強で世界の首都を覚えていた時のことですが、昔の地図と最新の地図を見比べてみると、首都が移転している国がいくつかあるのに気がついたのです。そのひとつがナイジェリアでした。調べてみると、ナイジェリアには北部と南東部と南西部で大きく3つの民族がいることが分かりました。もともと南西部の経済の中心であるラゴスという町が首都だったのですが、民族対立による理由で、3つの民族の緩衝地帯、つまり各々の中間にあたるアブジャという町に新しく人工的な首都を作ったということでした。ちょうど日本でも首都移転が話題になっていた頃で、世界ではこういう論理で首都が移転することがあるんだと知りました。これがきっかけになって、ナイジェリアという国になんとなく興味を持つようになったんだと思います。

校長対談第3回(前編)07

梶取:言葉の問題はどうされたのですか。

鈴木:大阪外大で、ナイジェリアの現地語のひとつであるヨルバ語を教える授業があることを知り、先生に頼んでもぐらせてもらいました。2年間の語学トレーニングの後、現地の家庭にホームステイすることになります。

梶取:京大にいながら、大阪外大にまで行って。

鈴木:京大時代は、4年間で30単位しか取れていないくらい学校に行かなかったので、非常に暇だったんです(笑)。時間だけは有り余るほどにあったので、大阪外大に行く時間もあったと(笑)。

梶取:言葉そのものを学びたいというよりも、現地の人達と近づきたい、接したいという思いの強さがあったからこその語学トレーニングですね。

鈴木:そうです。

梶取:それにしても凄いなあ。ナイジェリアの漁業事情について教えていただけますか。

鈴木:ホームステイ先は南西部のヨルバ人の家庭だったのですが、本当は南東部に行きたかったのです。そこは、ニジェール川という大河が流れ、広大なデルタが広がっている地域で、石油が産出するために利権をめぐる争いが絶えず、環境汚染、民族対立なども激しい。このような環境下で、人々がどのように漁業を行い、生活しているのか。それが、私が調査テーマとしたいことでした。

梶取:かなり治安が悪そうですが、大丈夫でしたか。
鈴木:結論を先に言いますと、調査地に行く前に足止めを食らってしまったんです。ホームステイ先のご主人から、「南東部に行ったら食われてしまうぞ」と。南東部は黒魔術が盛んで、外国人がいたら殺されて食べられてしまうそうです。本当かどうかはわかりませんが、それくらい民族間の不信感が強いということです。「お前はここに来た以上は私の息子だから、息子をそんなところに行かせられない」と。その時点で、南東部で漁業の研究をするという目的が完全に潰えてしまいました。そこで、一家の冠婚葬祭に付き合ったり市場に行ったりの日々を過ごし、失意のまま帰国することになりました。

梶取:とは言え、そのような経験を我々はできませんから。貴重な経験だったと思いますよ。危険な目には合わなかったのですか。

校長対談第3回(前編)03

鈴木:高速道路を走っていると、死体が何体か転がっていることもありましたし、危険は身の回りに散らばっている感じでした。ただ、僕自身が銃口を向けられるということはありませんでしたよ。

梶取:もう一度、ナイジェリアに戻ることは考えませんでしたか。

鈴木:むしろ、反動で日本の漁業のことが猛烈に知りたくなりました。現地の大学の水産学者に「アフリカの漁業に興味がある」という話をしにいったときに、「日本ではどのように漁業管理をしているんだい?」と聞かれ、まともに答えられなかったからです。海外の漁業を知る前に、まずは足元の日本の漁業のことを知らないとダメなんじゃないかと初めて強く思いました。でもどうやったら日本の漁業のことが分かるのかわからない。どんな本を読んだらいいのかも分からない。最終的には、やってみれば分かるはずと思い、三重県の漁師さんに頼みこんで、船に乗せてもらいました。最初は3日間ほどでしたが、船に乗って網を上げるのが楽しくて仕方なくなって。結局、集落の人に空き家を貸していただいて、1年半のあいだ、大学と集落を往復しながら、漁師見習い生活を送ることになりました。

校長対談第3回(前編)08

梶取:すごい行動力だなあ。

鈴木:朝早く漁に行き、水揚げが終わると網の修繕を行うんです。午後家に帰ると、もらった魚をさばいて食べる。さばき方も、料理の仕方も、漁師さんに習ったり、インターネットで調べたりして、少しずつ習得していきました。上手に料理できると美味しくて、うれしくて、どんどん次に挑戦していくことになりました。
▶さまざまな生き様について、もっと深く、広く知りたいという欲求が、どんどん強くなっていく。
梶取:京大での専攻は、文化人類学でしたね。いろんなところに飛び込んでいくのと関係があるのでしょうか。

鈴木:文化人類学は、異なる文化の中に入り込んで、現地語で現地人のように生活をしながらその文化や社会の仕組みを観察する学問です。ぼくのように体を張って飛び込んでいくのが好きな人間にはぴったりの学問なのですが、最初に興味を持った原点は、武蔵の国外研修で訪れた北京です。
1998年当時の北京は、学校の裏にもまだごちゃごちゃした路地裏がありました。洗濯物が干してあったりして生活感がただよう路地のなかに、若い夫婦がやっている屋台があったんです。ドラム缶を加工して作った調理台に練炭を入れて、肉まんやおやき、刀削麺を作って売っていました。僕はその店の肉まんが好きで、よく放課後に食べに行き、少しずつ顔なじみになっていきました。
留学先の人民大学付属中学はエリート養成校でしたが、屋台の夫婦は、同級生たちとは全然違うんですよね。ある日、息子の名前の話になって、どうやって書くの?と聞いたら、奥さんが「書けない」と。奥さんは読み書きができなかったんですよ。仕方がないから息子が帰ってきてから本人に聞くと、「張飛(ジャンフェイ)」と簡体字で書いてくれました。奥さんは「難しいことは分からない」と笑うけど、底抜けに明るくてやさしいんです。エリートの子弟が通う人大附中のたった数百メートル先なのに、なんて違う人生なんだろうと、ぼくはすごい衝撃を受けました。

梶取:そういった世界の現実に高校生で気づくことができるのは、国外研修の狙いですし、続ける励みになるお話です。

鈴木:僕が大学に入って文化人類学を学ぶことにしたのも、そうしたさまざまな生き様をもっと深く、もっと広く知りたいと思ったからなんです。その後、ナイジェリアや、漁村や、築地などさまざまな現場にどっぷりと浸かってきましたが、それもこれも原点は国外研修だったのだと思います。

梶取:先ほど、東京の生活は守られているとも話されました。外に飛び出したいとも。
鈴木:武蔵から京大に進んで、いわゆる勉強ができる人たちの中にいました。一方で、世の中には中学や高校を卒業してからすぐに働いている人たちもいるわけです。大学を出ていなくてもものすごい洞察力やアイデアと仁徳を持っている人たちとぼくは何人も知り合い、友人関係を築いていますが、通常、進学校コースを進んでいくとそういう人たちとの接点はあまりありません。それはとてももったいないことだし、自分の世界を非常に狭めているという感覚がありました。

梶取:なるほど。

校長対談第3回(前編)09

鈴木:研究者の家庭で、僕自身も研究者になることをなんとなく期待されて育ちました。漠然とプレッシャーを感じていたんでしょう、どこか、そこから外れたいという気持ちが、ずっとくすぶっていました。武蔵を全力で受けて落ちたら、地元の中学校に行こうと思っていましたし、京大の時も、落ちたら働いてもいいし、バックパッカーで世界一周でもしようと。でも、受かってしまった。
「あ~、受かっちゃった。外れられなかったな」と。だから余計に、これまで接してこなかった人たちと喋りたい、中に入りたいという気持ちが強くなりましたね。

梶取:鈴木さんの生き方の根っこにあるものが、わかった気がします。根っこがしっかりとしているから、これほどに大きく育てることができるんだなあ。大学卒業後、迷わず築地を選ぶことになるわけですね。
▶親を説き伏せて、築地へ。
水産をフィールドに、挑戦の日々が本格的にスタート。
鈴木:大学卒業を控えて、次にどうするか考えなければなりませんでした。当然、迷いましたよ(笑)。漁師の生活は面白かったのですが、疑問に思うこともありました。漁師さんと話すと、みんな口々に「魚が獲れなくなった」、「魚の値段が安くて生活できない」と言うのです。東京では決して食べられない鮮度が良くて美味しい魚が、産地では安く売られています。一方の東京では、魚は肉に比べて割高なイメージがあるにもかかわらず、本当に美味しい魚に出会えることは稀ですよね。どうしてこのようなギャップが生まれるのか知りたいと思ったのです。
大学院への進学を含めていろいろ考えた結果、最終的に築地の水産会社で働くということに決めました。漁師見習いの生活を通じて、体を動かし、五感を使う仕事の楽しさを知って、こんな生活を続けたいという気持ちもありました。

校長対談第3回(前編)10

梶取:ご両親は、反対されませんでしたか。

鈴木:父は、もちろん反対しました(笑)。僕の漁師の親方に至っては、「俺がお前の親父だったら自殺する」と(大笑)。だから、その時は、綿密に理論武装しました。

梶取:どのように説得されたのですか。

鈴木:いまの自分が知りたいのは、産地で獲れた魚が、東京の消費者の口にどうやって入っているのか。漁師さんに聞いても、市場に出荷した先のことがわかっていない。流通の研究がほとんどされていない状態なので、そこを知りたい。例えば新聞記者になって水産の取材をして記事を書くこともできるけれど、最初の3年間は事件の現場を回ったりして、その先になる。その3年間を我慢するのは耐えられない。やっぱり、いまやりたいことを優先するべきじゃないかと。

梶取:納得されましたか。

鈴木:そうですね。最終的に、決定するのは親じゃないので。
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