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トップ 校長対談「学びの土壌」校長対談「学びの土壌」第4回(前編)

一橋大学大学院言語社会研究科・准教授 三原 芳秋氏(前編)

ベルリンの壁は崩壊し、
三原少年の内面には、大きな地殻変動が起こる。

校長対談第4回(前編)01

校長対談「学びの土壌」第4回の対談相手は、一橋大学大学院言語社会研究科・准教授の三原芳秋さん。共に教育者でもあるお二人の“学び”をテーマにした対談は、武蔵の“土壌”を再確認する語らいとなり、また10代の少年たちにも貴重なメッセージが溢れた対談となりました。
プロフィール
左:
三原 芳秋(みはら よしあき)
1993年武蔵高校卒業(在学中に1年間イートン校(英国)に留学し、同校も卒業)。1997年東京大学文学部英語英米文学科卒業、同大学院修士課程に進学(修士課程在籍中に非常勤講師(英語)として母校で教鞭を採る)。2000年修士課程修了と同時に、英文研究室助手に就任。2001年同職を辞して渡米、コーネル大学英文科に留学(2013年博士号取得)。2004年に帰国し、お茶の水女子大学(2005-7)、同志社大学(2007-15)を経て、現在は一橋大学大学院言語社会研究科・准教授。専門の英文学研究を中心に、文学理論・思想から植民地朝鮮まで、ひろく〈人文学〉一般に関心を持ちつつ研究・教育に従事している。


右:梶取 弘昌(かじとり ひろまさ)
1952年東京生まれ。1977年東京芸術大学声楽科卒。1977年武蔵高等学校中学校芸術科非常勤講師。1988年、同校の専任教諭となる。2011年4月より校長。アレクサンダー・テクニック、ドイツリートの研究・演奏を現在でも続けている。
梶取:お久しぶりです。本日は、母校に来ていただいてありがとうございます。

三原:随分と久しぶりなので、校内を散策してきました。山羊を飼っているのですね。変わらず、武蔵らしいですね。

梶取:早速ですが、なぜ武蔵を受験したのですか。

校長対談第4回(前編)02

三原:他の人も同じだと思うのですが、親ですね。この質問は、絶対に聞かれるだろうと思って、母に尋ねてみました。すると、母の同級生や知人の子供で、武蔵に通う生徒や卒業生の印象がすごく良かったそうです。それから、「受験戦争と関係なく、学問的で知的な雰囲気の中でのびのびと6年間を過ごさせてあげたい。そういう理由で、武蔵に行かせたかったのよ」と言っていました。

梶取:嬉しいお話ですね。
三原:思い返すと、小さいときに兄にくっついて、近所の(通称)「おっちゃん」がやっていた寺子屋みたいなのに通っていました。虫を捕まえて解剖したり、育てたり、山へ行ったりとか、重さの違うボールを近所の団地の屋上から落としてみるとどうなるか実験したり。これも、武蔵と似ているところがありますね。母親としては、そういうところで知的好奇心を掻き立てるようなことを学ばせたいと考えていたのでしょう。

梶取:お母さんの影響は大きい。

三原:そうですね。もしも母が僕らの世代に生まれていたら、きっと大学の教員や研究者になれたんじゃないかと思うのですが、大学を卒業し、お見合いして結婚して家に入りましたから。そういった母親の知的エネルギーみたいなものが明らかに子供に向かったんですね。それは、あの世代の女性の多くに共通して感じることです。
▶わからなくても、何か引っかかる。
それは、「ほんものに触れる」経験を重視する武蔵の教育方針。

梶取:印象に残っている授業はありますか。
 
三原:一つは中1の幾何。大坪先生の授業です。ついこの間まで小学生だった人間に、いきなりユークリッド原論を読ませるんです。あれには、驚きましたね。
 
梶取:いまは、幾何が難しいと感じる生徒が多い。抽象的な世界が苦手なんですね。
 
三原:先生は、「平行線はどこまでも交わらない。だけど無限遠では交わることもあるんじゃないか?」と問うのです。いまでは、非ユークリッド幾何学とか知っているわけですけれど、あの頃は「何を言っているんだ、この人は」と思っていました。でも、水島さん(第1回対談)もお話しになっていましたが、わからないけど記憶に残っている。なぜか覚えています。
梶取:「点とは面積がないものである」。「えっ、面積あるじゃん」とか(笑)。
 
三原:だいたいがそういう感じ。哲学などを勉強するようになると、定理や公準の話も、こういうことだったんだなあと理解できる。中1でいきなり投げつけられて、それでも記憶に残るというのは、すごい授業だと思います。

校長対談第4回(前編)03

梶取:すぐにわからなくても良いと思いませんか。
 
三原:
そう思います。

梶取:いまの教育は、すぐにわからないといけない。すぐに成果を求められる。いまわからなくても、頭の中に引っかかってくれれば良いというのもあると思っています。

三原:むしろ、重要ではないでしょうか。梶取校長からも、グレゴリオ聖歌とか習いましたね。我々の代は、「グレゴリオ梶取」と呼んでいました(笑)。

梶取:皆川達夫先生の「中世・ルネサンスの音楽」を教科書に使ってね。四線譜を読ませたりもしていました。保護者は、「これを中1でやっているのか!」と驚いていましたが、クレームは一つもありませんでした。成績や授業内容で一喜一憂しない時代でした。
 
三原:大坪先生の思い出があります。僕が、修士課程在学中に2年間、英語の非常勤講師として武蔵に「御奉公」させていただいた折、記念室で校史の編纂にあたっておられた大坪先生を時折訪ねては四方山話をさせていただきました。
 
梶取:そんなことがあったのですね。

三原:大坪先生は、僕が後輩たちを教えに戻ってきたのをことのほか喜んでくださいまして、「君のように、第一線で研究に従事しているOBが現役の武蔵生たちを教えてくれるのは、本当に喜ばしいことだ。英語の授業といっても、たんに技術的なことを教えればいいのではなくて、その背後にある研究の厚みを伝えてほしい」と言ってくださったことが、いまでも胸に残っています。「ほんものに触れる」経験を重視する武蔵の教育方針は、こうやって脈々と受け継がれているんだなぁ、と感動したものです。
 
梶取:あらためて、責任の重さを感じますね。
 
三原:レポートの多さも、武蔵の特長です。
 
梶取:抵抗はありませんでしたか。

校長対談第4回(前編)04

 三原:物理少年だったので、すごく力を入れて書いていました。先生からどのような評価をされるか、点数よりも僕にとっては重要でした。ちょっと先生を驚かせてやろうとか思いながら、レポートに取り組むわけです。ウケると嬉しい。だから、小難しいことを書いてみたり、ふざけたことを書いてみたり。先生から、バカとか言われると、たまらなく嬉しかったです。
梶取:(笑)
 
三原:
大学では、レポートが基本になります。だから、周りの学生が苦しんでいるのを横目で見ながら、軽い(笑)と思っていました。武蔵生には普通のことでしたから。
 
梶取:武蔵にいる間は気がつきませんが、大学に行くとわかりますね。理科のレポートにしても、あの下地は大きいですよ。
 
三原:当たり前のように、中学生からやっていましたからね。
▶ごま塩は、なぜ胡麻と塩が分離しないのか。ひたすら実験の日々。
梶取:物理部は中1から入っていたのですか。

三原:そうです。物理部は面白かった。入学するとすぐ、記念祭でしょう。ノコギリの引き方をひたすら習います。これは実は大事なことで、まずは研究のための実験装置を自分の「手」で作ることから始めるという伝統がありました。絶対、買ってきたりしない。ノコギリを引きながら、代々の先輩たちが作った装置の伝説を聞かされるわけです。手作りの装置で、大学の研究室よりも精度の高い結果を出したとか。
 
梶取:技の伝承が、途絶え始めていないか心配です。土台から作ることが、どの学校でも疎かになってきていますね。
 
三原:倉敷の芸大で哲学を教えていらした先生に伺った話ですが、自分が教え始めた頃は、みんな手でものを作ることが好きな学生たちだった。それが、自分が辞める頃の学生は、PCの画面で切ったり貼ったり。物体の側と人間の側が互いに抵抗を感じ合いながら、どこかで折り合いをつけて作品を完成させるという感覚が、この何十年かで失われてしまったと。
 
梶取:ノコギリの技を磨きながら、三原さんはどのような研究をしていたのですか。
 
三原:「ごま塩の研究」をやっていました。
 
梶取:ごま塩の研究とは、どのような研究ですか。
 
三原:ごま塩って、瓶の中で胡麻と塩がいい塩梅に混ざっているでしょう。でも、普通に考えると分離するはずです。
 
梶取:そうだね。
 
三原:「なぜ分離しないのか不思議だね」という話から、ごま塩班を結成しました。砂のなかに空気の入った玉を埋めて全体を揺らすと、玉が浮いてきます。それで、まず砂を揺らす装置を作りました。砂粒の大きさと玉の大きさ、そして振動の与え方を変えながら、ひたすらデータを取り続けました。
 
梶取:面白いね。
 
三原:ごま塩の会社に手紙も書きました。どんな企業秘密があるのか教えてくれと(笑)。そうしたら子供相手だと思ったのか、その辺に配るようなパンフレットが送られてきまして。ごま塩班としては、「これくらいのことは子供でもわかるわ!」と腹が立ち、実験内容とそれまでの成果を書いて再度手紙を送ったのですが、広報担当の方からお叱りの手紙が返ってきたのを覚えています。お前は失礼だと。大人って嫌だなと思いました。
 
梶取:それはひどい。いまだったら、炎上しますよ。
 
三原:ツイッター炎上(笑)。ものを作って、ひたすら実証的なデータを取る、あまり理屈をこねない。物理部はもちろん、武蔵の理科の授業全体にその雰囲気がありました。手作りで温度計を作ったこともありましたよ。
 
梶取:生徒は、自分が面白いと思ったことにはすぐに飛びつくからね。なんでも作らせていたのですね。
 
三原:理科実験室の設備を使って、アルコールランプでガラスを溶かして温度計を作ったんですね。いまから考えると、危なっかしいことをやっていました。
▶語学力は、基礎力と「伝えたいことを持っているかどうか」。
梶取:三原さんはイートン校に行かれたのだけれど、第二外国語はドイツ語を選択していたのですね。
 
三原:そうです。絶対にドイツに行くつもりでした。
 
梶取:それは、またどういう理由で。
 
三原:あれはちょうど、ベルリンの壁が崩壊した頃です。現在は、トランプ大統領がメキシコとの国境に壁を作ると叫んでいますし、ヨーロッパもパレスチナも壁だらけの時代ですが、あの頃は、壁が壊れるんだ!世界が変わるんだ!という高揚感がありました。
 
梶取:いまの生徒は、その時代に生まれていません。すでに歴史になっています。
 
三原:僕らは少年のときに、あのすごい映像が刷り込まれていますよね。それで、ドイツに行くんだという気持ちが強くありました。
 
梶取:ドイツに行く予定が、イギリスのイートン校に変わりました。
 
三原:突然のお話でした。イートン校が創立550周年記念で海外から奨学生を受け入れることになったのです。推薦人が選ばれて奨学生を呼ぶことになったのですが、当時武蔵から出向されていた田中勝先生があちらで非常に信頼されていたので、日本は武蔵に一任することになったのだと思います。行きたい生徒は応募しろと言われ、深く考える余裕もなく書類を書きました。決まってからは完全に通常の編入生扱いでしたので、とにかく手続きが大変でした。気づいたらイートン校に着いていたという感じでしたね。
 
梶取
:言葉は、最初から通じましたか。
 三原:現地では基本的に日本語を喋る余地が無いわけです。着いた当初は、そもそも何の授業を受けているのかさえわからないというたいへんな状況だったのですが、何週間か経ったある日、それこそ突然、「全部」がわかるようになりました。そうなると、日常生活から日本語が消えるんですよね。

梶取:訳さないでも言葉が自然に入ってくる。

校長対談第4回(前編)05

 三原:夢も英語で見るし、日記も英語で書く。多分、脳みその中で、スイッチが起こったんですね。いまでも、英語で話す時に日本語に訳したりはしないですね。

梶取:それはすごい。
 
三原:そのスイッチは、ある日、突然起こります。ただ、そこですぐに戻ってきてしまうと、その経験が無くなってしまいます。ある程度の長い期間が必要です。僕は英語教師なので、学生によく話すのですが、そのスイッチが起こるか起こらないかを決めるのは、基礎力だと思っています。自信を持って言います。
 
梶取:なるほど。
 
三原:語彙とか文法とかが軽視されている昨今ですが、その基礎を全くやっていない人は、ある程度はできても大きなスイッチは起きないと思います。特に、短期間では。
 
梶取:文法などはいいから、まず話せるようにしようという風潮がありますね。でも、そうすると言葉がただのコミュニケーションの道具だけになってしまう。
 
三原:いまは大学でもコミュニケーション重視になっています。それが悪いとは言い切れませんが、しっかり読み書きができて、議論ができるようになりましょうと学生に話しています。アメリカのコーネル大学にいたときの話です。大変高名な日本人の先生にお会いしたのですが、発音は圧倒的に僕のほうがうまいのです。その方は訥々と英語を喋るのですが、やっぱりこの人には勝てないと思いました。おそろしく高度な議論をするし、大きな会場で講演し、名だたる教授陣からの質問にも理路整然と的確に答えているんですよ。たとえ僕がバイリンガルのようにペラペラ喋れても、この先生にはとうてい敵わない。基礎にあるものが違うんだって思います。
 
梶取:この時代、英語圏ではない人と英語で話す機会が多くなりました。中国だったりベトナムだったり。訛りがきつくて、それを理解する必要があります。そうすると、日本訛りでも良いから、しっかりと自分のことが話せる英語力が必要だと思いますね。
 
三原:ネイティブな発音はカッコイイかも知れないけれど、正直どうでもいい。伝わりさえすれば。そして伝えるものを持っていさえすれば。
 
▶「思考の型」を叩き込まれた1年。
梶取:イートン校での一年について教えてください。
 
三原:とにかく知的な環境が整っています。
 
梶取:授業を3教科くらいに限定して勉強するでしょう。

三原:あれは衝撃的でした。イートン校に行く手続きのなかで、履修する3科目を選べと言われるわけです。今までそんなことは経験がないし、「3科目って何じゃ?」と本当に悩みました。僕の場合、普通に考えると得意な物理、化学、数学を選択することになります。だけど、わざわざイギリスまで行ってやりたくないと思って。歴史と政治、物理を選びましたが、授業が始まると本当に大学の専門レベルでした。

梶取:例えば。

三原:歴史の場合ですと、17世紀後半の10年くらいの範囲の、当時の議員の日記などの一次文献を渡されて、それにもとづいて議論を展開する授業。試験も、たった1行の問題で、「何々について述べよ」とか。そこで得た知識は異様にマニアックな知識ですよ。ヨークシャーのジェントリーの名前がいくつも言えるとか、何の役にも立ちません。

梶取:それは、すごい(笑)。
 
三原:大学受験に必要な知識は得られません。けれど、「思考の型」みたいなものを、その授業でみっちりと学ぶわけです。
 
梶取:思考の型ですか。面白いですね。

校長対談第4回(前編)06

三原:議員の日記や議会演説などを読みながら、一体そこで何が起こっていたのかを自分なりに想像力を働かせ、エビデンスでバックアップしつつ、異なる立場の言説をぶつけ合い分析する、みたいな思考回路を身につけるのです。
 
梶取:先生も、専門家でないとできませんね。
三原:キャラが立っている先生が多かったですね。ガウンをなびかせながら、チェーンもつけていない猛犬を従えてくる先生がいたり(笑)。猛犬が先生より先に教室に飛び込んでくるという怖い授業。その先生は「この犬が一番勉強しているんだ」と言っていました。
▶高校時代は、自分の中で地殻変動が起こる。
梶取:イートン校から戻って、文系に変わったでしょう。留学していなかったら、理系のままでしたか。
 
三原:絶対に、物理をやっていました。
 
梶取:三原さんの中で地殻変動が起こったのですね。国外研修の2ヶ月間でも理系・文系を変更する生徒がいます。海外に行くと自分が壊される。壊されるのは良いことですね。くじけるようなことは、ありませんでしたか。
 
三原:楽しかったですよ。でも、ひとつ思い出すのは、街を歩いていた時に、地元の子供から、言わば露骨な人種差別なのですが、むやみに罵声を浴びせられたことがありました。あの時は本当に冷水を浴びせられた感じでした。
 
梶取:そんな経験があったのですか。
 
三原:自分で自分の姿は見えません。だから、イートン校にいると、育ちの良さそうなイギリス貴族みたいな生徒ばかりで、自分もその一員のような錯覚を覚えます。あの日は、自分の部屋に戻って鏡を見たときに驚きました。鏡の中にいるのは「黄色い人」ですからね。一見無垢な子供に罵声を浴びせられた経験は、いまでも、ちょっとしたトラウマになっています。
 
梶取:そうですか。
 
三原:いま、人種差別の問題に重大な関心がありますし、専門的にも考える立場ですけれど、自分の存在に対する違和感みたいなものを突きつけられた体験でしたね。
 
梶取:その経験も、文系に変わった理由のひとつですか。
 
三原:う〜ん、うまく言えないのですが、日本にいたら起きなかっただろう内面の葛藤やいろんなことがあって、そういうものを例えば、物理とか数学では解決できない。文学が解決してくれるんじゃないかと。17歳くらいの僕としては、イギリスですごく楽しかった分、とくに帰国してから、考えられないくらいの大きな「ギャップ」の感覚におそわれました。ある種のアイデンティティ・クライシスみたいなものがある中で、文学に助けを求めたというか惹かれたところがあったのかもしれません。
 
梶取:お祖父様が、国文学者でいらっしゃる。
 
三原:母親の父です。
 
梶取:その影響もありましたか。
 
三原:それが、イギリスから帰って東大模試を受けた時、志望校欄に文Ⅲと書いていたのを母親が知って驚いたわけです。おそらく母親が言いつけたのだと思うのですが、祖父に呼び出されて、「この業界に未来はないから、絶対にやめなさい。お前は勉強もできるのだから、文学部なんて行くことはない」と、それはそれはもう。
 
梶取:徹底的に反対された?
 
三原:吊るし上げられたわけではないけれど、かえって頑なになりましたね。僕なりに、文学部を選ぶ理由もあったわけですし。誰がなんと言おうと行ってやるという感じになっていました。そんな祖父でしたが、晩年は喜んでいたようです。自分の孫の中で、文学者がひとり出てくれたと。イートン校に行くときに、ものすごく喜んでくれたのも祖父でした。もともと帝大の仏文科だったのですが、戦争が始まりました。仏文科の教授から、「これから先は、敵性語だから食っていけない。国文に転科したほうが良い」と言われ、国文科に転科したそうで、欧州留学が若かりし頃の果たせなかった夢だったんだろうと思います。
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