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卒業生の声

理科に惹かれ

水島昇(59期 昭和60年3月卒業)

武蔵を卒業して23年になります。卒後医学部に進学し、数年間内科臨床医として勤務したのちに研究職に転身し、現在は基礎医学(生理学)講座で研究・教育に携わっています。この間、さまざまな角度から科学と向かい合ってきましたが、それも武蔵での何とも言えない理科体験から始まったと思います。

そもそもあの中学入試問題です。今でも健在と聞きますが、あの観察問題は大学院の入試に使っても良いくらいです。あのような問題を許し、むしろそれに好んで挑戦する受験生が母集団なわけですから、そこから選抜される生徒は察してあまりあると言えましょう。実際、あれほどユニークな人材が私の周りにあふれていたという時期はあの6年間が際だっていました。生徒数が少ないためか、卒業後は各方面でちりぢりに活躍するという印象になってしまいますが、最近になって大先輩の村松正實先生から、「武蔵の良いところは、卒業してから変に団結しないところだ」と聞かされ、なるほどと納得しました。現在、生命科学研究の世界に身を置いていますが、武蔵出身の方々が第一線で活躍されているのを知るたびに、少なからず正常とはいえない学校にいたという幸せな気持ちは共有しているのではないかと思います。そこで、記憶の中からいくつかのエピソードを引き出したいと思います。

武蔵の授業はほとんどがカルチャーショックでしたが、特にコンセプトとして痛快だったのが小林奎二先生(P先生)の物理学です。講義のたびに、速度、加速度、静電容量などの定義式を小さな紙に書くという試験がありました。重さや長さのような当たり前のものから始まり、毎回少しずつ増えて徐々に難しくなるというものです。少しは大変でしたが、数は決して多いものではありませんでした。むしろ大切なメッセージは、「そのような定義式は『定義』なので覚えるしかない。でもその他は考えればなんとかなる」というものだったと思います。すでに20年以上前なので、直接そのようなことをおっしゃったかどうか私の記憶もあやふやですが、あまりはずれてはいないと思います。事実、P先生の授業では、行列や複素平面などが文部省(当時)お構いなしで使われ、縦横無尽に数学と物理の間を行ったり来たりしたことを覚えています。高校生なので無邪気なものですが、見えないものや抽象的なものを考えることの楽しさを間違いなく感じたときだったと思います。

一方、研究職というものに漠然とあこがれてしまったのは根津研での化学の課外実験でした。当時、渡辺範夫先生の授業中の実験ではいろいろハプニングがあり、それだけでも十分刺激的だったのですが、さらなる刺激を期待してか、夏休みには同級生何名かと渡辺先生の根津研に実験に通いました。どのような実験をしたかは正直忘れてしまったのですが、いまなお覚えているのは、その光景と生活です。--------暑い夏の朝、古ぼけた「研究所」という建物にはいり、まぶしい外とは対照的な少し薄暗い研究室で「化学実験」をしばしする。ちょっと休憩とばかりに昼休みに江古田の町に行ってラーメンをすすり、またもどって実験をする。---------- すっかり研究者になりきってしまって、自分も将来何かを発見できるのではないかと、単純に錯覚したものです。これほど長閑とは言えないものの、現在の自分の生活がこれに遠くはないことを考えると、当時の錯覚がいまなお続いているのかも知れません。東京医科歯科大学や前職場の東京都臨床医学総合研究所にも、渡辺先生率いる武蔵の在校生が実験・見学をしに訪ねてくれていますが、現代の研究風景がどれだけ彼らにメッセージを送ることができるか、今度は私たちが問われているのでしょう。

20数年前に比べれば、今は間違いなく情報があふれています。インターネットを覗けば、欲しい情報が(その真偽は別にして)簡単に手に入ります。しかしそれは「自ら調べる」にはほど遠く、他人が調べたものを拝借しているに過ぎません。武蔵にはまだ多くの自然が残され、実験の機会も多く与えられ、大学の図書館さえも利用が許され、自分の頭と目と手で物をじっくり感じることができるはずです。最近は過度な相互評価を意識するせいか、短期的に成果のでる研究が増えたといわれています。しかし、武蔵のような環境で6年間過ごした卒業生なら、もっと腰の据わった研究を目指せるのではないかと思います。

今は医学部への進学が人気のようですが、例えば「私は医者にはならぬ。研究するために医学部にいくのだ」というようなユニークな生徒がいたとしても武蔵なら驚きません。生命科学に限らず、科学全般に是非意気込みのある人材を今後も輩出していただきたく、武蔵の理科教育が生徒の心を捉え続けるものであることを願ってやみません。

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