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卒業生の声

現在のわたしの武蔵

守矢健一(60期 昭和61年3月卒業)

武蔵中学・武蔵高校で過ごした12歳から18歳までの時期を、未だに懐かしく回顧することができない。懐かしいと感ずる過去とは、現在の自分との切実な関係を失った、セピア色に脚色された過去だけだろう。あのころの経験は、なお昨日のことのような生々しさを伴って立ち現れ、こちらは冷静を失うばかりだ。規格外の知的才能を持った何人かの同級生、あるいは有り余る才能が自らに単なる秀才であることを許さなかった友人を、遠くから眩しく見つめていた、全く凡庸で、可もなければ不可もない生徒だった自分・・・そんなものを思い出して、どうする?!

したがってまた、武蔵時代の自分の記憶と分かちがたく結びついている、そこで接した先生方を、懐かしく思い出したこともない。忘れたのではない。彼らは今でも、考えるよすがとしてわたしのなかに生きている。たとえば畑龍雄先生の幾何学の授業。彼の授業では、数学の内容を厳密な言語で、無駄を省いて表現する訓練を、何度となくさせられた。そのことが、文章の厳密性ということをわたしが考えるようになるきっかけとなったように思う。あるいは、真田治彦先生。彼は、中学一年生のわれわれに『ある明治人の記録――会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著)を参考図書として指定し、明治維新の裏側に、そして、凡そ醒めていることの重要さに気づかせてくれた。司馬遼太郎はだめだと直感的にわかった瞬間である。上記の書物は、最近また紐解く機会があった。授業なんて、そのとき生徒に分かるかどうかはあまり重要ではない。生徒に、ある持続する余韻を残すかどうか。その一点に教育はかかっている。真田さんの、あの独特の雰囲気。それは決して、生徒を大人として遇する、といった紋切型で説明できるものではない。お前らが大人であるかどうかなど知ったことか、こういう現実(とそれに対応する言語表現)もまた、メディアで声高に語られなくとも、たしかにあるのだ、ということを、語る内容の慎ましい勁さにふさわしいさりげなさで、示すや否や、生徒が顔を上げると真田さんは既に教室を去っている。その去り際の鮮やかさ。われわれ生徒は、「先生」という公式敬称より一層の敬意を込めて、「真田さん」と、言っていたのだ。

あの当時、魅力的でとびきり個性的な先生方が、数多く居られた。そして、この独特の先生方たちの中心に、当時校長でもあられた、大坪秀二先生が居られた。大坪先生の周辺に、魅力的な先生方が居られたのだ。どうもそんな気がする。そして、わたしにとっては、大坪先生は、いまなお現役の先生であり続けている。

まずは、校長としての大坪先生。思い出すのは彼の長大な式辞である。その内容は、およそ常識的な式辞のそれではなかった。入学したての中学一年生にとっては難しすぎるような日本の近過去の歴史について、生徒の集団無責任体制について、その他さまざまのことについて、節目の式典で、彼は語った。長い長い話だった。還暦間近だった大坪先生が、講堂の壇上から、校長のようにではなく、真摯だが人前に出ることが本当は好きではない若者が、それでもこれだけは話さねばならないからと覚悟を決めて友人たちに話すように、やや早めで軽い、熱気と恥じらいの混じった声で、語った。待っているのは数多くの、行儀の悪い生徒の雑音。対して大坪先生は、稀に、「おい、静かにしろ」とか「うるさい」とか、言われたが、それはどうも、校長の威圧的な口吻ではない。若者が、若者に対して「静かにしてくれよ」と言っているような初々しさが、還暦間近の大坪先生には、あった。生徒であったわたしはただ俯いて、騒音に掻き消されがちな式辞を聞き漏らすまいとしていた。

そして、その、校長である大坪先生は、中学一年生の幾何も担当されていたのである。入学式で難しい話を高校2、3年生に向けて語っていた(とわたしには思われた)、あの、大坪先生が中学一年生を相手に授業される。それがどれだけ素敵なことだったか!大坪先生が手書きで書かれた、藁半紙に印刷された、夏休みの数学の宿題は、わたしには難しかった。しかしあの難しさは少年の背伸びへの誘惑でもあった。暑さと問題の難しさとに藁半紙を汗でよれよれにさせながら、夏休みの最初の数日に(!)、解いていったものだ。

大坪先生は、少なくとも保護者(の一部)にも人気があった。第一カッコ良かった。すらりと伸びた身体に秀でた額、そして含羞を湛えた笑顔。保護者会だったか学校説明会だったか、大坪校長の話を聞いてきた母が、「校長先生は、子供に家事手伝いもせず勉強させるというのは良くない、と言っていたわ」と嬉しそうだったのを覚えている。日常の中に知を血肉にするヒントが隠されている、というのだ。そう、大坪先生には、スマートといってかたづけられない、不思議なリアリズムがあった。彼は、数学者であり、かつ登山家なのだ。当時のいわゆる「御三家」でも、武蔵の教育は大坪先生の存在によって、異彩を放っていたのではないだろうか。

そして、わたしにとって、大坪先生はいまなお生々しい先生であり続けている。本誌に彼が断続的に掲載している、武蔵中学・高校についての歴史的エセーは、近代日本教育史のそれはすばらしい批判的ドキュメントだ。そこには、教育者として社会的自覚を強烈に持った者のみに可能な、単なる武蔵礼賛に終わらない、まして愛校精神のあからさまな鼓舞とは断じて無縁の厳しい自己解剖能力が、典雅な文体の裏側に、土臭い実証に裏づけられて、光っている。スタンドプレーなしの、身近な、否自らの問題の解明が、大きな問題の核心をずばりと突く、その鮮やかさ。そう、現代社会の問題とは、現代に生きる我々自身が抱える問題のことであり、われわれの外にあるのではない。こうした知的スタイルこそが、愛校心など歯牙にもかけないことを矜持としたわれわれかつての高校生が、秘かに武蔵を誇りと思うなにものかだったのだ。

現在の武蔵はどうなのだろうか。わたしは知らない。しかし、1988年以降、武蔵は英独仏中韓の各国の良質な高校と密度の高い生徒間交流を淡々と続けていることはこの同窓会報でも報告されている。これは、恐るべき業績である。だが、真に驚嘆に値するのは、こうしたプラクティスが淡々となされていること。岸田生馬先生のご好意で見せていただいた『武蔵高等学校生徒国外研修 年報20号2007年度』を紐解くと、武蔵の生徒がのびのびとした感想を、日本語のほか英語やフランス語、ドイツ語や中国語、そして韓国語で、綴っている。日常の教育のもっとも基本的なこと(読み書き)の延長上に、国際交流の基本である外国語による作文力の涵養が、あたかも当然そうしなければいけないかのように、実現されている。大抵の大学生が、第二外国語の初歩で音を上げるのを何度も見せつけられている者にとっては、あまりにも次元が異なる成果のあり方に、ほとんど笑ってしまう。考えてみれば、グローバル化というのは、身近に他者が潜んでいることなのであって、そうした社会を知的に生き抜くには、複数の言語的コミュニケイションをタフに泳ぎ抜いていくほかない。いや、そんな気の利いたような科白をひと言も吐かずに、国外研修が淡々と継続されているそのあり方にこそ、大坪先生とその周囲の先生方が形成されたある知的伝統が、脈々と受け継がれ、さらに、その伝統が、当たり前のようにヨーロッパやアジアの最良の教育と呼応することを示しているように見える。

大学で法学の研究と教育に携わり、行きがかり上、とくに日独法学学術交流のためにも微力を注ぐ巡り会わせとなったわたしにとって、武蔵とは、こうしたある種の、自分を居心地悪くさせる記憶にほかならない。武蔵とは、自問を強いるなにものかなのだろうか?たとえば ―― 日本の法学は、明治以来のあくせくとした日本社会の近代化とぴったり寄り添って発展してきたが、そこに、歴史学的なクールな反省はなされてきたか?大学教員は、学生の評価を気にして講義内容を「分かりやすく」「おもしろおかしく」していないか?国際学術交流とは、国内外の有名教授を招聘し、流行のテーマで国際シンポジウムを開催して、知的スノビズムをちょっとくすぐられるものの結局は当たり障りのない議論をすることだと勘違いする「大学教授」が、ちと多すぎないか?知の矜持はどこにあるか?

「武蔵的なるものとはなにか」の抽象的探求にはわたしは関心がない。関心があるのは、武蔵にあってわたしを魅了し続けてきたと同時にわたしを知的に刺激し続け、動かし続けるところの、ある知的スタイルである。このスタイルは、どのような知的脈絡の中に生きてきたものなのか、そしてそれをわれわれは今後どのように紡いでいかなければならないのか。それをわたしは考え、実践していきたい。そのきっかけを与え、いまも刺激を与えてくださり続けているのが、大坪先生と、彼に体現された武蔵の、そして現在でもイートン校やその他ドイツやフランス、中国や韓国の優れた教育機関とも響きあうことによって、事後的にグローバルであることが実証されたという稀有な、ある伝統に他ならない。その伝統を意識することが、敢えて言えば、現在のわたしの武蔵である。

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