武蔵で学んだこと

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川副祐太(83期 平成21年3月卒業)
 武蔵を卒業してはや一年が経過した。この一年の大学生活を通して様々な事に気付かされた。例えば、武蔵で培ってきた事がいかに実用的か、あるいはいかに大学でも通用するか、ということだ。中学一年からレポートを書かされる学校はそうはないだろう。当時の我々からすればいきなり崖に突き落とされた様なものだったし、当然その"レポート"のできは今からすれば酷いものである。しかしそれより6年間、武蔵生は数え切れない本数のレポートを書き続ける。自分の大学でのレポートに対する意識はいくらか他に比べて違うように思う。他にも、今だからこそ武蔵について思うところは多々ある。


 一つに武蔵は自由であるとよく言われる。学校自身が自由を掲げているわけではないが、確かに武蔵は自由であると思う。しかしそれは決して放任主義であるとか、何をしても許されるという意味ではない。この六年間で私が学んだ事はむしろ、自律―いかに自らをコントロールするか―である。そして武蔵は生徒が自律を効かせている限り、決してその個人の可能性を潰す事はない。言いかえれば、学校の側が一本のレールを敷く事はない。その意味で武蔵は自由なのだと思う。道のりが違えばもちろん行き着く先も違うし、それが先生の期待する結果と違う事もあるかもしれない。レポート課題であれば他人と結論が違う事は当たり前である。学校行事に深く関わってきた私としては、行事においても生徒が主体となる武蔵の姿勢を身に感じてきた。もちろんその過程に誤りがあれば先生達はそれを正すので、繰り返しになるが放任主義であるなどと思わないで欲しい。

 さて、多くの方が興味を持ち、避けて通れない問題はやはり大学受験についてであると思う。非常に主観的になってしまうかもしれないがわずか一年前まで受験生であった身として少しばかり語らせていただきたい。武蔵は今日では受験に強くないという印象を受けていると思う。しかし結論から言わせてもらえば、決してそんなことは無い。受験どころか、大学においても通用する力を身に付けることができる、それが武蔵だ。塾があくまでも受験用の「勉強」の場であるのに対し、武蔵は「学問」の場であったのを今になってひしひしと感じる。そして、東大を受験した身から言わせて貰えば、大学が求めているのも学問のできる人間なのではないだろうか。東大受験において大切なのは基礎的な理解、的確な論理展開、そして日本語力である。それらはすべて、武蔵でしっかりと培う事のできるものだ。

 強歩大会、記念祭と委員長を務めてきた私としては、武蔵の学校行事についても触れさせて欲しい。武蔵には強歩大会・体育祭・記念祭という三大行事がある。その詳細は学校HPの本校のあらましから学校行事というページがあるので、そちらを参照していただきたいが、上記のように生徒主体の運営が大きな特徴であるといえる。強歩大会はコースを決める所から市役所、警察等への許可申請まで生徒が行う。記念祭においても各参加団体の管理、校内装飾、広報活動など、すべて生徒が主体となって行う。生徒達の記念祭への参加も実に様々であり、「武蔵らしさ」が良く出ていると私は思っている。ただの娯楽団体が増えているというのは事実であるが、私としては娯楽団体を否定するつもりはないし、記念祭委員会が校内案内ツアーなど、様々な企画を用意しているので、是非一度足を運んでいただきたい。武蔵という学校の特色が少しは分かっていただけると思う。

 最後に幾つかのメッセージを贈りたい。まず、武蔵への受験を考えている方へ。武蔵の良いところは、偏差値だけでは図れません。上でも述べたように記念祭を覗いてみたり、広い校内を歩き回ったりして直に武蔵を感じてみてください。次に、在校生へ。最近では早くから塾に通う人も増えているが、私としてはもっと武蔵での時間を大切にして欲しい。それは勉強とそれ以外の両面での話である。武蔵で学ぶ事は受験でも必ず役に立つ。あとは自身がいかにそれを吸収しようとするかだ。参考になるか判らないが、私が塾に通い始めたのは高三に上がってからであったし、それで十分であると思う。

 これまで述べてきた事は、いくらか私の偏見もあるだろうし、拙い言葉のせいで上手く伝わらなかったかもしれない。それでも私の武蔵に対する思いのほんの一部でも伝えられたらと思い、執筆させてもらった。少なくとも私がいかに武蔵という学校に思い入れがあるか、それはわかっていただけたと思う。ただし、ずっと武蔵に固執しているわけではない。固執するわけにもいかない。今こそ武蔵の六年間で得た「世界に雄飛するにたえる」翼をもって飛び立つ時なのだと思う。

理科に惹かれ

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水島昇(59期 昭和60年3月卒業)


 武蔵を卒業して23年になります。卒後医学部に進学し、数年間内科臨床医として勤務したのちに研究職に転身し、現在は基礎医学(生理学)講座で研究・教育に携わっています。この間、さまざまな角度から科学と向かい合ってきましたが、それも武蔵での何とも言えない理科体験から始まったと思います。


 そもそもあの中学入試問題です。今でも健在と聞きますが、あの観察問題は大学院の入試に使っても良いくらいです。あのような問題を許し、むしろそれに好んで挑戦する受験生が母集団なわけですから、そこから選抜される生徒は察してあまりあると言えましょう。実際、あれほどユニークな人材が私の周りにあふれていたという時期はあの6年間が際だっていました。生徒数が少ないためか、卒業後は各方面でちりぢりに活躍するという印象になってしまいますが、最近になって大先輩の村松正實先生から、「武蔵の良いところは、卒業してから変に団結しないところだ」と聞かされ、なるほどと納得しました。現在、生命科学研究の世界に身を置いていますが、武蔵出身の方々が第一線で活躍されているのを知るたびに、少なからず正常とはいえない学校にいたという幸せな気持ちは共有しているのではないかと思います。そこで、記憶の中からいくつかのエピソードを引き出したいと思います。


 武蔵の授業はほとんどがカルチャーショックでしたが、特にコンセプトとして痛快だったのが小林奎二先生(P先生)の物理学です。講義のたびに、速度、加速度、静電容量などの定義式を小さな紙に書くという試験がありました。重さや長さのような当たり前のものから始まり、毎回少しずつ増えて徐々に難しくなるというものです。少しは大変でしたが、数は決して多いものではありませんでした。むしろ大切なメッセージは、「そのような定義式は『定義』なので覚えるしかない。でもその他は考えればなんとかなる」というものだったと思います。すでに20年以上前なので、直接そのようなことをおっしゃったかどうか私の記憶もあやふやですが、あまりはずれてはいないと思います。事実、P先生の授業では、行列や複素平面などが文部省(当時)お構いなしで使われ、縦横無尽に数学と物理の間を行ったり来たりしたことを覚えています。高校生なので無邪気なものですが、見えないものや抽象的なものを考えることの楽しさを間違いなく感じたときだったと思います。


 一方、研究職というものに漠然とあこがれてしまったのは根津研での化学の課外実験でした。当時、渡辺範夫先生の授業中の実験ではいろいろハプニングがあり、それだけでも十分刺激的だったのですが、さらなる刺激を期待してか、夏休みには同級生何名かと渡辺先生の根津研に実験に通いました。どのような実験をしたかは正直忘れてしまったのですが、いまなお覚えているのは、その光景と生活です。--------暑い夏の朝、古ぼけた「研究所」という建物にはいり、まぶしい外とは対照的な少し薄暗い研究室で「化学実験」をしばしする。ちょっと休憩とばかりに昼休みに江古田の町に行ってラーメンをすすり、またもどって実験をする。---------- すっかり研究者になりきってしまって、自分も将来何かを発見できるのではないかと、単純に錯覚したものです。これほど長閑とは言えないものの、現在の自分の生活がこれに遠くはないことを考えると、当時の錯覚がいまなお続いているのかも知れません。東京医科歯科大学や前職場の東京都臨床医学総合研究所にも、渡辺先生率いる武蔵の在校生が実験・見学をしに訪ねてくれていますが、現代の研究風景がどれだけ彼らにメッセージを送ることができるか、今度は私たちが問われているのでしょう。


 20数年前に比べれば、今は間違いなく情報があふれています。インターネットを覗けば、欲しい情報が(その真偽は別にして)簡単に手に入ります。しかしそれは「自ら調べる」にはほど遠く、他人が調べたものを拝借しているに過ぎません。武蔵にはまだ多くの自然が残され、実験の機会も多く与えられ、大学の図書館さえも利用が許され、自分の頭と目と手で物をじっくり感じることができるはずです。最近は過度な相互評価を意識するせいか、短期的に成果のでる研究が増えたといわれています。しかし、武蔵のような環境で6年間過ごした卒業生なら、もっと腰の据わった研究を目指せるのではないかと思います。


 今は医学部への進学が人気のようですが、例えば「私は医者にはならぬ。研究するために医学部にいくのだ」というようなユニークな生徒がいたとしても武蔵なら驚きません。生命科学に限らず、科学全般に是非意気込みのある人材を今後も輩出していただきたく、武蔵の理科教育が生徒の心を捉え続けるものであることを願ってやみません。

現在のわたしの武蔵

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守矢健一(60期 昭和61年3月卒業)


武蔵中学・武蔵高校で過ごした12歳から18歳までの時期を、未だに懐かしく回顧することができない。懐かしいと感ずる過去とは、現在の自分との切実な関係を失った、セピア色に脚色された過去だけだろう。あのころの経験は、なお昨日のことのような生々しさを伴って立ち現れ、こちらは冷静を失うばかりだ。規格外の知的才能を持った何人かの同級生、あるいは有り余る才能が自らに単なる秀才であることを許さなかった友人を、遠くから眩しく見つめていた、全く凡庸で、可もなければ不可もない生徒だった自分・・・そんなものを思い出して、どうする?!

したがってまた、武蔵時代の自分の記憶と分かちがたく結びついている、そこで接した先生方を、懐かしく思い出したこともない。忘れたのではない。彼らは今でも、考えるよすがとしてわたしのなかに生きている。たとえば畑龍雄先生の幾何学の授業。彼の授業では、数学の内容を厳密な言語で、無駄を省いて表現する訓練を、何度となくさせられた。そのことが、文章の厳密性ということをわたしが考えるようになるきっかけとなったように思う。あるいは、真田治彦先生。彼は、中学一年生のわれわれに『ある明治人の記録――会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著)を参考図書として指定し、明治維新の裏側に、そして、凡そ醒めていることの重要さに気づかせてくれた。司馬遼太郎はだめだと直感的にわかった瞬間である。上記の書物は、最近また紐解く機会があった。授業なんて、そのとき生徒に分かるかどうかはあまり重要ではない。生徒に、ある持続する余韻を残すかどうか。その一点に教育はかかっている。真田さんの、あの独特の雰囲気。それは決して、生徒を大人として遇する、といった紋切型で説明できるものではない。お前らが大人であるかどうかなど知ったことか、こういう現実(とそれに対応する言語表現)もまた、メディアで声高に語られなくとも、たしかにあるのだ、ということを、語る内容の慎ましい勁さにふさわしいさりげなさで、示すや否や、生徒が顔を上げると真田さんは既に教室を去っている。その去り際の鮮やかさ。われわれ生徒は、「先生」という公式敬称より一層の敬意を込めて、「真田さん」と、言っていたのだ。

あの当時、魅力的でとびきり個性的な先生方が、数多く居られた。そして、この独特の先生方たちの中心に、当時校長でもあられた、大坪秀二先生が居られた。大坪先生の周辺に、魅力的な先生方が居られたのだ。どうもそんな気がする。そして、わたしにとっては、大坪先生は、いまなお現役の先生であり続けている。

まずは、校長としての大坪先生。思い出すのは彼の長大な式辞である。その内容は、およそ常識的な式辞のそれではなかった。入学したての中学一年生にとっては難しすぎるような日本の近過去の歴史について、生徒の集団無責任体制について、その他さまざまのことについて、節目の式典で、彼は語った。長い長い話だった。還暦間近だった大坪先生が、講堂の壇上から、校長のようにではなく、真摯だが人前に出ることが本当は好きではない若者が、それでもこれだけは話さねばならないからと覚悟を決めて友人たちに話すように、やや早めで軽い、熱気と恥じらいの混じった声で、語った。待っているのは数多くの、行儀の悪い生徒の雑音。対して大坪先生は、稀に、「おい、静かにしろ」とか「うるさい」とか、言われたが、それはどうも、校長の威圧的な口吻ではない。若者が、若者に対して「静かにしてくれよ」と言っているような初々しさが、還暦間近の大坪先生には、あった。生徒であったわたしはただ俯いて、騒音に掻き消されがちな式辞を聞き漏らすまいとしていた。

そして、その、校長である大坪先生は、中学一年生の幾何も担当されていたのである。入学式で難しい話を高校2,3年生に向けて語っていた(とわたしには思われた)、あの、大坪先生が中学一年生を相手に授業される。それがどれだけ素敵なことだったか!大坪先生が手書きで書かれた、藁半紙に印刷された、夏休みの数学の宿題は、わたしには難しかった。しかしあの難しさは少年の背伸びへの誘惑でもあった。暑さと問題の難しさとに藁半紙を汗でよれよれにさせながら、夏休みの最初の数日に(!)、解いていったものだ。

大坪先生は、少なくとも保護者(の一部)にも人気があった。第一カッコ良かった。すらりと伸びた身体に秀でた額、そして含羞を湛えた笑顔。保護者会だったか学校説明会だったか、大坪校長の話を聞いてきた母が、「校長先生は、子供に家事手伝いもせず勉強させるというのは良くない、と言っていたわ」と嬉しそうだったのを覚えている。日常の中に知を血肉にするヒントが隠されている、というのだ。そう、大坪先生には、スマートといってかたづけられない、不思議なリアリズムがあった。彼は、数学者であり、かつ登山家なのだ。当時のいわゆる「御三家」でも、武蔵の教育は大坪先生の存在によって、異彩を放っていたのではないだろうか。

そして、わたしにとって、大坪先生はいまなお生々しい先生であり続けている。本誌に彼が断続的に掲載している、武蔵中学・高校についての歴史的エセーは、近代日本教育史のそれはすばらしい批判的ドキュメントだ。そこには、教育者として社会的自覚を強烈に持った者のみに可能な、単なる武蔵礼賛に終わらない、まして愛校精神のあからさまな鼓舞とは断じて無縁の厳しい自己解剖能力が、典雅な文体の裏側に、土臭い実証に裏づけられて、光っている。スタンドプレーなしの、身近な、否自らの問題の解明が、大きな問題の核心をずばりと突く、その鮮やかさ。そう、現代社会の問題とは、現代に生きる我々自身が抱える問題のことであり、われわれの外にあるのではない。こうした知的スタイルこそが、愛校心など歯牙にもかけないことを矜持としたわれわれかつての高校生が、秘かに武蔵を誇りと思うなにものかだったのだ。

現在の武蔵はどうなのだろうか。わたしは知らない。しかし、1988年以降、武蔵は英独仏中韓の各国の良質な高校と密度の高い生徒間交流を淡々と続けていることはこの同窓会報でも報告されている。これは、恐るべき業績である。だが、真に驚嘆に値するのは、こうしたプラクティスが淡々となされていること。岸田生馬先生のご好意で見せていただいた『武蔵高等学校生徒国外研修 年報20号2007年度』を紐解くと、武蔵の生徒がのびのびとした感想を、日本語のほか英語やフランス語、ドイツ語や中国語、そして韓国語で、綴っている。日常の教育のもっとも基本的なこと(読み書き)の延長上に、国際交流の基本である外国語による作文力の涵養が、あたかも当然そうしなければいけないかのように、実現されている。大抵の大学生が、第二外国語の初歩で音を上げるのを何度も見せつけられている者にとっては、あまりにも次元が異なる成果のあり方に、ほとんど笑ってしまう。考えてみれば、グローバル化というのは、身近に他者が潜んでいることなのであって、そうした社会を知的に生き抜くには、複数の言語的コミュニケイションをタフに泳ぎ抜いていくほかない。いや、そんな気の利いたような科白をひと言も吐かずに、国外研修が淡々と継続されているそのあり方にこそ、大坪先生とその周囲の先生方が形成されたある知的伝統が、脈々と受け継がれ、さらに、その伝統が、当たり前のようにヨーロッパやアジアの最良の教育と呼応することを示しているように見える。

大学で法学の研究と教育に携わり、行きがかり上、とくに日独法学学術交流のためにも微力を注ぐ巡り会わせとなったわたしにとって、武蔵とは、こうしたある種の、自分を居心地悪くさせる記憶にほかならない。武蔵とは、自問を強いるなにものかなのだろうか?たとえば ―― 日本の法学は、明治以来のあくせくとした日本社会の近代化とぴったり寄り添って発展してきたが、そこに、歴史学的なクールな反省はなされてきたか?大学教員は、学生の評価を気にして講義内容を「分かりやすく」「おもしろおかしく」していないか?国際学術交流とは、国内外の有名教授を招聘し、流行のテーマで国際シンポジウムを開催して、知的スノビズムをちょっとくすぐられるものの結局は当たり障りのない議論をすることだと勘違いする「大学教授」が、ちと多すぎないか?知の矜持はどこにあるか?

「武蔵的なるものとはなにか」の抽象的探求にはわたしは関心がない。関心があるのは、武蔵にあってわたしを魅了し続けてきたと同時にわたしを知的に刺激し続け、動かし続けるところの、ある知的スタイルである。このスタイルは、どのような知的脈絡の中に生きてきたものなのか、そしてそれをわれわれは今後どのように紡いでいかなければならないのか。それをわたしは考え、実践していきたい。そのきっかけを与え、いまも刺激を与えてくださり続けているのが、大坪先生と、彼に体現された武蔵の、そして現在でもイートン校やその他ドイツやフランス、中国や韓国の優れた教育機関とも響きあうことによって、事後的にグローバルであることが実証されたという稀有な、ある伝統に他ならない。その伝統を意識することが、敢えて言えば、現在のわたしの武蔵である。

人生への寛容さ

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柿沼亮介(78期 平成16年3月卒業)


まだ二十数年しか生きていない私が、「人生」だとか「寛容」だとかいった大仰な言葉を並べるのはおこがましいことかもしれない。しかしそもそも、武蔵の先生方について何か書くということ自体が私にとっては大それたことなので、身の程をわきまえないことを書かせていただくことを諸先輩方の寛容さをもってお許し願いたい。


武蔵、特に社会科の先生方には、様々な形で好奇心を刺激され、そしてまたそれを形に変えていく手ほどきをしていただいた。

社会科の先生というと、ある程度以下の世代であれば必ず故岡俊夫先生と加藤侃先生の名前が挙がるだろう。どちらもエピソードに事欠かない先生だ。定期試験の直前になると「練習問題」と称した問題を配って答えあわせを行い、本番の試験では「練習」の文字がとれて「試験」に換えられた問題を配る岡先生。「世界地図を描きなさい」という試験問題で、何の指示がなくても世界地図に色を塗ると余分に点をくれる加藤先生。その他、ここでは書けないようなことも含めて多くのエピソードをご記憶の方も多いことだろう。


私自身も、両先生については多くの思い出がある。岡先生から授業中、ある歴史家(トインビーだったと記憶している)が、授業で扱っていた問題についてどのような見解を持っていたかということを問われ、恥ずかしながらまったく答えられなかったことがあった。岡先生の授業というと、試験問題の「特殊さ」から、ある意味で楽な授業だと思われがちだった。しかしその実、世界システム論を三角貿易やインドの土地制度史から解説していくなど、高度なものが多かったし、毎回大量に配られるプリントはどれもこれも難しく、理解するのに一苦労だった。

また岡先生は、天気のいい日には開始早々授業を切り上げたり、組主任の時に会合を「伝えることはないから」とあまり開かなかったりと、細かいことには無頓着であまり気にしない先生だと思われることが多かったが、実際にはものすごい生徒思いで細かいことにも目がいく先生だった。国外研修生が日本にいない間の授業のプリントを一人ひとり封筒に詰めて下さっていて、私もイートン校への交換留学から帰ってきたらいきなり大きく膨れた封筒を渡されて感激したのを憶えている。ここまでして下さった先生は岡先生だけだ。

他にも、要所要所でしっかりと生徒のことを気にかけていたことを知っている元生徒は多いだろう。お葬式に駆けつけた人の多さ、そして岡先生の思い出を今でも懐かしそうに語る人の多さにも、先生がいかに生徒を想い、また生徒が先生のことを慕っていたかが顕れている。


大学に入ってから、休みになる度にどこかしらに遠出している。異国の街でふらふらしながら、実は自分は、「カトカン」に憧れてこんなことをしているのではないかと思うことがある。加藤先生に地理を教わったのは、正式には中二の時だけだ。(「正式には」というのは、高三の時には岡先生に時間割をいじっていただいて、正式登録科目の日本史・世界史以外に加藤先生の地理も聴講させていただいていたからだ。)しかしこの二年間の、ナウルやバングラディシュ、そして光州事件直後の韓国などへの旅の話は、あまり外国に興味を持つことがなかった私にとっては新鮮で、また衝撃的だった。大袈裟な言い方をすれば、世界に目を向けることを自明のものとする感覚は、加藤先生のお話を通して学んだといえると思う。

また武蔵の頃、生徒野外研究奨励基金を利用させていただいて、北海道や信州などでフィールド・ワークの真似事を行っていた。北海道におけるリゾート産業について調べる中で加藤先生には、昔の教え子で、あるリゾート開発への反対運動を行っている方や、加藤先生が担当されていた家庭科(現在は総合学習の枠)の北海道農業体験でホームステイの受け入れをして下さっていた、南富良野町の農家の方々などを紹介していただき、お宅に泊めていただいてお話をうかがわせていただくなどした。加藤先生の紹介だからこそできたことだと思う。


武蔵時代は興味の赴くままに色々なことに手を出し、結局どれも大した成果は上げられなかった。しかしそれでも、岡・加藤両先生を始めとする社会科の先生方は、「お前は気が多いからな」と笑いながらも常に手を差し伸べて下さった。

両先生から大きな影響を受けたことは間違いないが、私は結局、東洋史学にも地理学にも進まなかった。また、社会科の先生方から、現在の進路である日本史学に背中を押されたこともない。むしろそういう道に進むことについて、様々な側面からのお話をして下さった。それでも、先生方と接することで自分の中の何かが刺激され、漠然と日本史に進む道が見えてきたのだった。

先生方が示して下さったのは、もしかしたら人生への寛容さとも言うべきものだったのかもしれない。自分の中の気持ちに正直に、自由に生きること。多くの好奇心の対象や選択肢を身をもって示してくれたからこそ、全身で受け止め、今度は自分自身でそれらを見つけていく力を涵養することができたのかもしれない。(もちろんまだまだ道半ばだが。)これから自分がどのような道で生きていくのかまだ分からないが、卒業して早四年、先生方から学んだ寛容さをもって歩んでいきたいと思う今日この頃だ。

2010年4月

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