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「ー卒業生が語るー 学びの土壌」

トップ 「ー卒業生が語るー 学びの土壌」第9回(前編)学習院大学理学部数学科 教授 山田 澄生 氏

学習院大学理学部数学科 教授 山田 澄生 氏(前編)

「みんな違って、みんないい」武蔵で育ち、私は、プリンストン進学を選びました。

校長対談第9回(前編)01

校長対談「学びの土壌」第9回の対談相手は、学習院大学理学部数学科の教授、山田澄生さん(61期)。武蔵を卒業後、プリンストン大学に進学、スタンフォード大学大学院を経て、マサチューセッツ工科大学(MIT)、コーネル大学、アラバマ州立大学で教鞭を取られた山田さんから、グローバルな視点での進路選びのお話や、学びのモチベーションを高める話が伺えました。
プロフィール
左:梶取 弘昌(かじとり ひろまさ)
1952年東京生まれ。1977年東京芸術大学声楽科卒。1977年武蔵高等学校中学校芸術科非常勤講師。1988年、同校の専任教諭となる。2011年4月より校長。アレクサンダー・テクニック、ドイツリートの研究・演奏を現在でも続けている。

右:山田澄生(やまだすみお)
1987年武蔵高校卒業。プリンストン大学卒業、スタンフォード大学大学院博士課程、Ph.D(数学), 専門は微分幾何学、幾何構造のモジュライ理論、一般相対性理論に関わる幾何解析。現在、学習院大学理学部教授、学習院大学国際センター所長。

梶取:学習院大学のキャンパスは、自然が豊かで歴史が感じられて素晴らしいですね。本日はよろしくお願いします。
 
山田:武蔵のキャンパスにも通じるところがありますね。
 
梶取:山田さんは、武蔵を卒業されてプリンストン大学に進学され、長くアメリカで活躍された経歴もお持ちです。本日は、グローバルな視点でのお話をいろいろとお聞きしたいと思っています。

山田よろしくお願いします。
▶学問の良識を感じる、教科横断型の武蔵の授業。
梶取:対談の冒頭ではみなさんにお聞きしているのですが、武蔵を受けた理由についてお聞かせください。
 
山田:父の仕事の関係で、8歳の時に1年間だけドイツに住んだ経験があります。その時の現地での大家さんに16歳の息子さんがいらして、いつも一緒にサッカーをして遊んでもらいました。8歳の少年には、16歳のお兄さんはヒーローでした。
 
梶取:そうですよね。
山田:それでサッカーが大好きになったのですが、当時、日本ではそれほどサッカーは盛んではありませんでした。帰国してからもサッカーがしたい。でも、できない。小学生の間、その思いを強く持ち続けていて、東京一グラウンドが広い武蔵にしようと(笑)。
校風が自由だという話もありましたし、私は、どちらかというとマイペースで、自分の好きなことをやるタイプだったので、合っているのかなと思いました。

校長対談第9回(前編)02

梶取:そうでしたか。お住まいは近かったのですか。

山田:いえ、遠かったです。小学生のときは浜松町に住んでいました。中学1年生から東横線の学芸大学に引っ越したのですが、いずれも1時間はかかりましたね。

梶取:それでも武蔵に来たかったのですか。

山田:そうでしたね。東京一広いグラウンドだけを頭に描いて(笑)。

梶取:それで、めでたく合格されて。

山田:はい。実は、父が小中高と地方の公立の学校で教育をうけたので、私立の学校に進む必要はないという考え方をしていました。一方でサッカーができないので、小学4年生くらいまで野球をやっていたのですが、そのうち一人二人と欠けていって野球ができなくなってしまいました。みんなに、どこに行くのかと聞くと、塾だと。それで、「塾って何?」と母親に聞いたのですが、すると「あなた、塾に行きたいの?」と。そんな感じで塾に通い始め、周囲と比べると遅れたスタートだったのですが、なんとか間に合って合格できました。

梶取:ようやく、サッカーができるようになりましたね。

山田:そうです。大西先生が監督だったのですが、筑波大学を卒業して来られたばかりのときで。61期は先生とちょうど12歳、一回り違うんです。

梶取:では、やはりヒーローでしたか。

山田:それが、ヒーローというよりも、いつもサングラスをかけていて怖い先生でしたね、ニコリともしないし(笑)。最近、大西先生に会うことがあって、当時の話をしたのですが、「おれ、どうやって子どもを教えてよいのか、わからなかったんだよな、あの頃。だからさしあたって大学のコーチを真似していたんだ」と(笑)。

梶取:当時は、どのような授業でしたか。

山田:理科系の授業は、教養主義、非常にオーソドックスというか旧制高校を彷彿とするような授業でした。格調が高くて難しかったですね。でも、中学生なりに、勉強ってこうやってするんだという気づきがあって、良い意味でショックを受けました。

梶取:どういう難しさがありましたか。

山田:計算して答えを出すという問題はほとんどなくて、何を聞かれているのか必死に考えなければいけない問題が多かった。いまから考えてみると、自分で考える訓練を受けていたんだと思います。

梶取:数学や物理以外の授業でもそうでしたか。

校長対談第9回(前編)03

山田:はい。例えば、地理の角南先生の授業では地球儀の上に三角形を書くのですが、すると平面の三角形と違うわけです。球面幾何学の話ですね。

梶取:地理の話をしながら、幾何の話もされていたのですか。

山田:はい。理系も文系もない授業が多くて、非常に新鮮で嬉しく感じました。
梶取:中学の低学年の頃ですか。

山田:そうです。いまの話は、すべて中学1~2年ですね。

梶取:いまの生徒もそうですが、すごい授業をやっているという実感がないまま授業を受けています。卒業してから分かるようです。

山田:50歳になったいまでは、すごい授業だったなと思います。日本には確固とした受験システムがあって、否応なく文系と理系に分けることになりますね。それが、日本社会にとって大きな負の遺産になっています。これを、これからどう変えていくかということが、日本の国力そのものを左右すると思いますが、その意味で、武蔵の授業は、先見の明があるというか学問の良識を感じます。

梶取:理系文系に分ける制度は、かなり昔から始まっていますよね。

山田:明治時代になって、西洋に追いつかないといけないと考えた時期には、役人とエンジニアをいかに育成するかという観点からの効率化したシステムだったのでしょう。

梶取:「武蔵は理系が多いのですか」という質問をよく受けます。現実はほぼ半々なのですが、理系か文系かは、これから先、関係がなくなります。たとえば、経済学は数学ができないとやっていけません。好きとか嫌いとかを言っている場合ではありません。やっぱり、武蔵ながらの文系も理系もない、学問をさせる学校でありたいと思います。

山田:角南先生の思い出話に戻りますが、球面三角形の話の一ヶ月後には、新潟では冬は寒いから睾丸を真綿で包むという話をするんですよ(笑)。江戸時代の旅人が、どこが冷えるといちばん具合が悪くなるかというとやはり急所だと。みんな、そうかそうかと(笑)。

梶取:球面幾何の話とは、つながっているのですか。

山田:つながっています。地図の話の展開なのですが、そうやって生徒を引き込んでいくのですね。

梶取:結局、各教科に分かれてはいますが、国語でも社会でも理科でも、全部横断的な授業でしたね。

山田:そうです。
▶「作文できる、レベルの高い英語」を教わりました。
梶取:奨学金を得て、大学はアメリカのプリンストン大学に進まれるわけですが、英語は得意だったのですか。

山田:それが、得意というには程遠い感じでした。まず奨学金のお話からしますと、私がいただいたのは、近衛プリンストン奨学金というものです。近衛というのは、近衛文麿首相の長男の近衛文隆さん。戦前にプリンストン大学で勉強されていたのですが、戦争が始まり、呼び戻されて、そこから満州に渡り、終戦と同時にソ連に捕まって10年以上拘留された後シベリアの収容所で亡くなりました。彼は、プリンストン大学でゴルフ部の主将をやり、人を魅了するカリスマのある人だったらしく、当時のアメリカの友人たちが大変に悲しんで、近衛さんのメモリアルスカラシップを作ろうとなり、私は、その第1号として行かせていただくことになりました。

梶取:そうだったのですか。

山田:これは、後日談ですが、選ぶ側としては、帰国子女や英語が得意な生徒ではなく、勉強したそうだなという生徒を選ぼうということをあえて提言していたみたいです。面接の時に、「君は英語がそんなに下手なのに、どうしてアメリカに行きたいのか」と聞かれました(笑)。高校3年の夏までは予備校に通い、バーナード・ショーやバートランド・ラッセルの文章を読んで、翻訳したりもしていましたので、ペーパーの英語は不得意ではなかったのですが、英語を話すというのはほとんどやっていなくて、面接官も驚いたのでしょう。

梶取:当時、武蔵の英語の授業は、どのような授業でしたか。

山田:非常に伝統的なスタイルの授業でした。でも、武蔵で受けた英語教育は、アメリカに行ってから非常に役立ちました。それは何故かというと、英作文ができたからです。しゃべれないけれども、文法はしっかり身についていました。矢崎先生や福田先生、岸田先生のおかげです。まったく紙の上の勉強なのですが、英語の本質、教科書には書かれていないことを教わっていたということに、作文ができたことで気がつきました。

校長対談第9回(前編)04

梶取:以前、アメリカ東海岸のいわゆるアイビー・リーグ*を視察した時に、留学していた大学院生から同じ話を聞きました。日本の大学を出てアメリカに行った理系の大学院生たちなのですが、彼らが言うのは、自分たちに足りないのは書く力だと。論文を書くには、しっかりとした作文能力が求められますから。アメリカに行くと気づくんですね。日本ではいま英語の4技能が大切だといろいろなところで言われています。もちろんその通りなのですが、どこかずれている気もします。
*アイビー・リーグ=アメリカ合衆国北東部にある私立の名門8大学(ハーバード大学、イェール大学、ペンシルベニア大学、プリンストン大学、コロンビア大学、ブラウン大学、ダートマス大学、コーネル大学)の総称。

山田:言葉というのは、非常に地味な努力をして初めて身につくものです。地味さというものを、会話を中心においた語学教育で軽視しているのではないかという危機感があります。

梶取:旅行の英会話をやっていても仕方がありません。

山田:そのとおりです。アメリカに行くと身に沁みてわかるのですが、受けている教育レベルによって使う英語がぜんぜん違います。だから、武蔵を卒業して、将来なんらかの専門職に就こうとする人は、アメリカでも最高級の教育を受けている人と英語でやり合わなければいけない。その人たちは、やはりバートランド・ラッセルやバーナード・ショー、T・S・エリオットなどを読んでいる人たちです。そういう人たちが使う英語を使わなければいけないということで、そこは、How are you? みたいな話ではありません。
▶「ファインマン物理学」との出会いが、人生を決定づけました。
梶取:山田さんは数学がご専門ですが、数学に興味が出てきたのはいつ頃ですか。

山田:それは、非常にはっきりしていて、実は数学ではなくて物理なんです。物理学者リチャード・ファインマンが、カリフォルニア工科大学の学部1・2年生のための講義をおこした教科書「ファインマン物理学」(岩波書店)との出会いが、私の人生を決定づけました。

梶取:くわしく教えていただけますか。
山田:岩波の第3巻の終わりにある「最小作用の原理」という章を読んで、わからないながらに非常に興奮しました。変分法という分野があるのですが、物事というのはある関数が一番小さくなるところで安定する。そのような話です。高1くらいだったでしょうか。友人の岩田覚(同じく61期、現在、東大で離散数理工学を研究している)が、変分法に関する研究で山川賞を取りました。早熟な友人を前にしてすごいなあと思っているところに、その変分法に関する話が「ファインマン物理学」にありまして。それで、ふたりでこの教科書を読もうよと。もう夢中になりました。

校長対談第9回(前編)05

梶取:本との出会い、友人の山川賞、そのタイミング。すごい話ですね。

山田:人生が変わったと言っても大げさではありません。それで変分法に惹かれ、いまでも変分法を生業にしながら学習院大学で数学の教員をしています。実際にこれから今日の午後も、テル・アビブとニューヨークとスカイプを介して一緒に議論するのですが、やっぱり最小作用の原理を根本とした研究課題です。

梶取:その「ファインマン物理学」は、いまの高校生が読んでもついていけますか。

山田:講義録なのでサラサラと読めるのですが、読んで物理が理解できるようになるかというと非常に難しい。英語と同じで、やはり地道な努力が必要です。けれども、物理とはなんぞやというファインマンが伝えたい考え方はよくわかります。彼が亡くなる前に、「僕はノーベル賞をもらったし、いろいろと研究をしてきたけれども、僕の生涯でいちばんの貢献は、あのファインマン物理学を書いたことだと思う」と語ったほどの名著です。

梶取:学年全体に、学問に燃えるような雰囲気があったのですか。

山田:「みんな違って、みんないい」というが武蔵の良いところでしたから、それほどの感じではなかったですね。

梶取:それぞれが好きなことを夢中でやっていた感じですか。

山田:そうですね。それで、ファインマンの話の続きなのですが、「ファインマン物理学」の背表紙に、彼が講義をしている白黒の写真があって、その下に、「マサチューセッツ工科大学(MIT)で学部を終了、プリンストンで博士号を取得」とありまして、そうするとプリンストンというのが、私にとってのブランドになったわけです。こういう大学はすごいところなんだろうと。ですから、そのプリンストンに奨学金で行けるとなると失うものは何もない。得るものしかないと思い、応募しました。

梶取:すばらしいですね。ファインマンというだけで、アメリカだ!と思ったわけですか。

山田:アメリカというよりプリンストンですね。プリンストンがたまたまアメリカにあったということです。

梶取:周囲が東大に行く時代にあって、俺はそうじゃないと。

山田:ファインマンを介して知ったプリンストンは私にとってブランドでしたから。そういう意味ではミーハーですね(笑)。ちなみにテル・アビブにいる私の共同研究者の指導教官の指導教官は、ジョン・ウィーラーです。ウィーラーはプリンストンでのファインマンの指導教官です。
▶寮生活という相撲部屋で、英語を磨きました。
梶取:当然、授業はすべて英語だから、シャワーのように英語が降ってくるわけでしょう。大変でしたでしょう。

山田:大変と思う暇もなく、健康で元気でしたから、日々、必死で格闘していました。ところで私は日頃から日本に住んでいる外国人で非常に日本語が上手だと感心している方々がいます。誰だと思いますか?

梶取:さて、誰でしょうか。

山田:私は、お相撲さんだと思っています。たとえば横綱の鶴竜はモンゴル人ですが、インタビューでも、まるで日本人のような日本語を話しますね、初めて聞いたとき驚きました。

梶取:確かに、そうですね。

山田:日本に長く暮らす外国人は数多いですが、誰もが鶴竜にはなれません。それは、相撲部屋という物理的な環境だと思うのです。前置きが長くなりましたが、アメリカの大学に行くというのは、相撲部屋に入るのと同じなんです。全寮制で、基本的に4人部屋。シャワーとトイレは寮内で共有。食堂は、毎日時間が決まっていて、みんなで顔を付き合わせて食べる。そういう生活です。相撲部屋でしょう。

梶取:なるほど。

山田:なんでこいつはこんなに英語が下手なんだと思われながらも、「相撲部屋」環境で友達を作り、単位を落とさないように必死でノートを取るという毎日でした。でも、2年生のある日、本当に突然なのですが、英語が喋れるようになり、書けるようになり、読めるようになったのです。それは非常に不連続な感じで、私の知っている世界が一瞬にして倍になった経験でした。

梶取:わかります。英語に限らず、学びとはそういうものですね。停滞しているように見えても、実はそうではない。

山田:そうです。不連続だし、非線形ですね。非線形というのは、たとえば学ぶ時間に比例して理解が進むのではなく、進まないときがあり、突然に進んだりします。

梶取:教師としては、それを見守る姿勢が大事だと思います。

山田:私は、研究することが仕事ですが、まず現代数学のすべてがわかるというのは人一人の人生の間には、不可能なわけです。ですから、これは知っておかなければいけない、勉強しないといけないということが一日に何回も出てきます。では、どうするかというと、私は「罪のリスト」と呼んでいるのですが、知るべきことをリスト化し、勉強し終えた後に、「ああ、この罪は償えた。これで研究者としてひとつ先に進める」とリストから消すのです。

梶取:そうすると、山田さんクラスの研究者でもわからないことがたくさんあって、それを消化しながら研究なさっているのですか。

山田:先に進めば進むほど自分の無知を思い知って謙虚になる、そういう感じです。

梶取:塾やマスコミの方、保護者の方とお話をすると、先取り学習に関しての質問が必ず来ます。武蔵は「そのようなことは重要ではありません」と答えるのですが、大学受験をゴールに据えた受験用の学習をいかに効率的にやるかという風潮が世の中全体にあって、そのテクニックを学ぶことに走っているというのが、いまの教育に感じる心配のひとつです。

山田:競争というのは、どうしてもテクニックに走ってしまうと思うのですが、自分でわかる、自分で理解するというのは、競争とは全く関係ありません。プライベートな話ですから。競争の悪い所は、アイデアのプライバシーを取り去ってしまうところだと思います。

梶取:なるほど。

山田:研究者というのは、自分だけしか知らないアイデアの不動産みたいなものを持っていることが、いちばんの武器であり財産です。この山の奥深くに、まだ誰も見たことのない私だけが知っている美しい谷があるというような。
テクニックというのは、他人と共有されているからテクニックなんです。だから、そういう意味では、サイエンスと受験勉強というのは非常に背反していると思います。

梶取:誰も知らない世界を誰かに伝える。それは、論文を通じて発表するということですか。

山田:そのとおりです。君は、こんなに美しい谷を見つけてきたんだね、すごいねとお互いを褒め合う。そうして、サイエンスは進んでいくということですね。
▶素晴らしいメンターとの出会い、それが人生の大きな支えに。
梶取:アメリカの大学では、ある学部に入ったとしても、いろいろ自由に専攻を変えることができますよね。

山田:はい。学部では、専攻を選ぶのは2年生の後期になりますが、物理を勉強するつもりで行ったはずが、ルネッサンス美術を専攻するとか、文学を勉強するつもりだったのが理論物理に進むということもありうるわけです。

梶取:羨ましい学びの土壌がありますね。
山田:実は、プリンストンに行ったときに、建築にも興味を持っていました。物理か建築。それで、建築をやるためには絵の科目を取らなければいけなくて、デッサンや油絵を描くのですが、もう夢中になってしまいまして。先生から褒めていただいて、調子に乗って4年間で油絵を100枚も描きました。

梶取:それは、すごい。

校長対談第9回(前編)06

山田:最終的には建築は専攻しませんでしたけれど、3年生後期のときに、美術学部のギャラリーで、個展をやらせてもらいました。

梶取:素晴らしいですね。

山田:絵を描いたことは、いろいろな意味で非常にいい経験になりました。絵の先生は、みなさんニューヨーク在住の芸術家で、我々学生をマンハッタンの自分のスタジオに呼んでくれたり、メトロポリタン美術館をはじめとする様々な美術館やギャラリーを案内してくれました。その中で特にお世話になった85歳になる先生は、相変わらず仲良くしていただき、いまでもとても頼りにしています。彼女は、私の人生のメンターです。

梶取:メンターを見つけることは、大事なことですね。自分の専門分野ではなくても、この人すごいなという人が見つけられると、人生に大きな支えになります。

山田:もうひとり、私にとっては数学では志村五郎先生がそうですね。非常に有名な先生で、整数論における20世紀の巨人とされる方ですが、私の学年の数学専攻の学生を大事にしてくれた方です。先生が日本に来られたときには、いろいろご報告したり相談させていただいたりの関係を続けています。専門分野においては舌鋒が鋭く非常に怖い先生で、日本の数学者には苦手な方も多いのですが(笑)、私くらい歳が離れていて、かつ分野も離れているせいか、温かく接していただき、私の数学のキャリアにおいて、励ましやアドバイスを数多くいただきました。
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